ADDIO PIRATA
マルコ・パンターニの死
先週の土曜日、90年代後半の自転車ロードレース界を席巻した希代のクライマー、「イル・ピラータ(海賊)」ことマルコ・パンターニが、滞在先の安ホテルで死体で発見されました。享年34歳。98年にジーロ・ディターリアとツール・ド・フランスを共に勝つという偉業を達成して頂点を極めた当時は、文字通りの国民的英雄だっただけに、ここ3日間イタリアのマスコミはこの話題一色といってもいい状態です。昨日の司法解剖によると、直接の死因は、脳と肺に浮腫ができた影響による心臓停止ということなのですが、何が原因かはよくわかりません。抗うつ剤など薬物の過剰摂取が引き金という見方が濃厚のようです。表向きは「事故」ということになるのでしょうが、事実上は「自死」といった方がいいかもしれません。少なくとも「他殺」でないことは確か。すべてのきっかけとなったのは、ジーロとツールの「ダブル」を達成した翌年、全ての山岳ステージを制して総合優勝目前だったジーロで、UCI(国際自転車連盟)の抜き打ち血液検査に引っかかって、15日間のドクターストップを喫し、ゴールを目前にして棄権を強いられたことでした(事の経緯については、以前書いたこれ
をご参照ください)。当時の自転車ロードレース界で、EPOの使用は誰にとっても公然の秘密であり、UCIによる抜き打ち検査も、事前に誰かが情報をキャッチしたら全チームに流すのが内輪の不文律になっていたといわれます。不思議だったのは、それにもかかわらず、この時パンターニのチーム(メルカトーネ・ウーノ)だけが引っかかったことでした。これについては、総合優勝を確実にしているにもかかわらず、他の選手にステージ優勝の花を持たせようとしなかったパンターニとチームの振舞いが周囲の怒りと妬みを買い、メルカトーネ・ウーノだけには抜き打ち検査の情報が流れなかったためだった——という話を、死亡を報じる一連の記事の中に見つけました。ロードレース界の内側にいる人々のコメントに「パンターニだけがスケープゴートにされた」という声が少なくないのも、おそらくそうした裏事情が絡んでいるからだと思われます。その直後に引退を口にしたことが示す通り、「身内に裏切られた」ともいえるこの事件が残した精神的ダメージは大きく、その後パンターニは深刻なスランプに陥ります。折しも、EPOを含めたドーピング行為を犯罪として立件する動きがイタリア各地の検察で持ち上がり、パンターニはビッグネームであるがゆえにその格好の標的となりました。この99年ジーロでのEPO使用疑惑だけでなく、他にも複数のドーピング裁判に被告あるいは参考人として巻き込まれ、そうしたことばかりがマスコミの話題になる日々が続きました(最終的には、ここまで結審した裁判ではすべて不起訴処分に終わっています。法律上、EPOの使用を犯罪として立件できないというのがその理由)。その後、2000年のツールでランス・アームストロングを相手に山岳ステージで2勝するなど、何度か復活の兆しはみせたものの、かつてのレベルに返り咲くことはできないまま。休養と復帰を繰り返していたここ1、2年は、鬱状態に陥ることが多くなっていたといわれます。そんな中、整形手術で耳と鼻の形を変え心機一転を図るという痛々しいまでの覚悟で参加した昨年のジーロでは、総合14位で完走。この結果は、本人を除く誰から見ても誇るに値するものでしたが、本人にとっては単なる失望でしかなかったようです。このジーロを最後にパンターニはロードレース界から姿を消し、孤独と退廃の世界に沈んで行きました。ドーピングとは関係のない文字通りのハードドラッグにも手を出していたようで、昨年秋には麻薬依存症治療のための隔離コミュニティに数週間入ったほど。ベストが56-58kgだった体重は80kgに達していたといい(身長は170cm)、最後の2ヶ月は、両親とクリスマスを祝った以外、何かから逃げるようにホテルや友人宅を転々としていたといわれます。5日前から滞在していたリミニのホテルも、以前には一度も泊まったことのない大衆的なレジデンス。最後の日々はほとんどずっと部屋に独りで閉じ籠ったまま過ごしており、外から呼んでも返事がないのを不審に思ったホテルの従業員がドアを蹴破ってみると、上半身裸で倒れていたパンターニの周りには、向精神薬のパッケージやフィルムが散乱していたということです。孤独な死でした。99年のジーロ、ピエモンテ・アルプスの巡礼地オローパ(標高1200m)を目指すステージで、10kmを越える最後の厳しい上りにさしかかろうという直前、パンターニはチェーントラブルでトップグループから脱落、メカニックが修理している間に2分近い差をつけられてしまいました。その場面を認めて付き添ったアシストはたった1人。しかし再び自転車に跨ったパンターニは、鬼気迫るスパートで50数人を抜き去り、最後にトップで逃げを打っていたパヴェル・トンコフを料理すると、その後もまったくペースを落とすことなく登り続け、2分以上の差をつけてゴールしました。見る者の心を震わせる、何か崇高ささえ感じさせるアタックでした。ドロミテ・アルプスの聖地マドンナ・ディ・カンピーリオでUCIの抜き打ち検査に遭うのは、それからほんの1週間後のことです。翌年のクリスマス、そのルートを車で辿ってオローパの巡礼地まで上ったことがあります。いつまでも続く細く急な峠道には、TVで当時のジーロやツールを観たことがある人ならおなじみの、あのPantaniというペイントが延々と残されていました。今はもうかすれて消えてしまったかもしれませんが。■
Posted: 火 - 2月 17, 2004 at 08:49 午後