Addio carissimo Professore
追悼 フランコ・スコーリオ
今からほんの数時間前、10月3日の午後10時過ぎに、メッシーナ、ジェノア、チュニジア代表、リビア代表などを率いたフランコ・スコーリオ監督が、TVのカルチョ討論番組出演中に急性心不全で倒れ、死去しました。享年64歳。シチリア州のエオーリエ諸島・リーパリ島の出身で、プロ選手の経験がまったくない叩き上げの独学派。レッジーナの育成コーチからキャリアを始め、セリエBのメッシーナでトト・スキラッチを発掘した80年代後半には、アリーゴ・サッキと並ぶ急進的ゾーンディフェンス主義者としてならしました。ピークは、80年代末のジェノア監督時代。88-89シーズン、長年Bに低迷していたチームをセリエAに連れ戻し、翌年は11位で残留を勝ち取るという快挙を成し遂げています。この時に、ジェノヴァの町、そしてジェノアサポーターとの間に深い絆が生まれました。その後は、ボローニャ、ウディネーゼなどを率いるも結果を残せず、途中就任と解任の繰り返しで90年代を送ることになりますが、93-94シーズンと00-01シーズン、それぞれ降格の危機に瀕したジェノアに呼び戻された時には、いずれもマジカルな手腕で不可能と言われた残留をもたらしました。94-95シーズンには、ジェノアでプレーしたカズ・ミウラの監督でもあったわけですが、そのカズを起用せず、スピネッリ会長(現リヴォルノ会長)と衝突して途中解任されています。そのあたりの経緯は、いくつか下のエントリーにある『セリエAに挑んだ男たち』に詳しく描かれていますので、ご興味のある方はぜひご一読ください。98年からは2年あまりに渡ってチュニジア代表監督も務め、02年ワールドカップ出場権獲得の基礎を築いています。にもかかわらず途中でその任を放り出したのは、愛するジェノアがセリエC1降格の危機に陥っていたからでした。その後、03年にリビア代表監督を辞してからは、その理論家肌の弁舌とエキセントリックな人柄を生かし、TVコメンテーターとして人気を集めていました。独特の論理を振りかざしての歯に衣着せぬ物言いには、(いい意味で)山師的とでもいいたくなるような不思議な魅力がありました。こうして長々と書いているのは、ぼく自身、“プロフェッソーレ”との間に個人的な思い出があるからです。日韓ワールドカップで日本がチュニジアと当たることになった関係で、当時リビア代表監督だったスコーリオをチュニスで捕まえ、長いインタビューをして、某『ナンバー』誌にその記事を書いたことがありました。2002年4月のことです。チュニスのホテルで1時間以上もインタビューにつきあってくれたプロフェッソーレは、その後気軽に夕食に誘ってくれました。食卓では、戦術論からアフリカサッカー事情、そしてとてもここには書けないやばい話まで、虚実入り交じるはったりの効いた独演会を、たったひとりの観客として心底堪能させていただいたものです。それからは、一度サン・シーロのプレスルームですれ違って挨拶したくらいで、ゆっくり言葉を交わす機会はありませんでしたが、いつかまたそういう機会があれば、と思い続けていました。最後に姿を見たのは、昨日の夜、出演していた全国ネット局のカルチョ討論番組で舌鋒鋭くユーヴェのサッカーを批判する姿でした。トリノのデッレ・アルピでユヴェントス対インテルを取材していたぼくは、試合が終わってプレスルームに下りてきたところだったのですが、TV画面に大写しになった“プロフェッソーレ”が、いつものポーカーフェイスで切れ味鋭く喋っている姿に、思わず頬が緩んだものでした。その翌日である今日も、ジェノヴァのローカルTV局の討論番組に出演し、愛するジェノアを巡って、現会長(にして八百長行為によってチームをC1に落とした張本人)のエンリコ・プレツィオージと丁々発止の議論を交わしていたところだったといいます。その議論の最中、スコーリオは突然意識を失い、そのまま帰らぬ人となったのでした。あまりにもあっけない、しかしいかにも彼らしい死にざまでした。このエントリーがあまりに長大になるのを承知の上で、追悼の意を込めて、3年半前に『ナンバー』誌のために書いた原稿を、ここに再録したいと思います。雑誌とwebに掲載された最終版ではなく、インタビューの翌日に現地で書いた、音楽でいえばラフミックスというべきヴァージョンです。こちらの方が、インタビューの内容がヴィヴィッドに出ているので。長いですが、ご一読いただければ幸いです。合掌。
4月14日、チュニス。市街地のはずれにあるエル・メンサ・スタジアムでは、アフリカ・チャンピオンズ・カップ、エスペランス・チュニス(チュニジア)対マディナ・トリポリ(リビア)のゲームが行われていた。
赤・黄の縦縞ユニフォームにちなんで“ジャッロロッソ”という愛称で呼ばれているエスペランスは、最も多くの代表選手を擁するチュニジア有数の名門クラブだ。対するマディナは、リビアの国内リーグで現在5位だという。
ゲームが始まってみると、両チームの実力差は歴然としていた。見るからに格下のマディナは、1トップだけを残して9人が自陣に引きこもるアウェー戦法の常道を取るが、個人能力の格差は埋めようがない。たまにボールを奪っても、不正確なパスは3本つながることさえ滅多になく、エスペランスが一方的にゲームを支配する展開になった。
とはいえ、そのエスペランスも、足元へのショートパスをトントンと調子よく回しながら敵エリア前まで軽快に攻め込むものの、そこからはワンツーかスルーパスを試みては密集するディフェンスに跳ね返される、という単調な攻撃をひたすら繰り返し、ちゃんとした決定機は滅多に訪れない。「パスをつなぐばかりで全然シュートまで行かない」と噂で聞いていた通りの、純正北アフリカ印サッカーだった。
しかし、この日のスタジアムで最も興味深かったのは、ピッチ上で繰り広げられている楽しい、しかし堂々巡りのような試合(それでも最後には4-0でエスペランスが圧勝するのだが…)ではなく、メインスタンド上部にしつらえられた貴賓席からピッチを見下ろす、ある人物の存在だった。
フランコ・スコーリオ。98年秋から2000年初頭まで2年強に渡ってチュニジア代表を率いたベテランのイタリア人監督は、今年1月からリビア代表の指揮を執っている。
彼が、セリエC転落の危機に瀕していた古巣ジェノアのために、ワールドカップ出場権獲得を目前にしたチュニジア代表を放り出したのは、昨年2月のことだ。彼は、シーズンが終わるまで代表とジェノアの監督を兼任するという妥協案を出したが、チュニジアサッカー協会のプライドがそれを受け入れない。相思相愛だったにもかかわらず、両者は別離を余儀なくされる形となった。
日本では、エキセントリックな頑固者というイメージが定着しているスコーリオだが、ここチュニジアでは今もなお、代表をワールドカップに導いた最大の功労者として、絶大な人気を誇っている。ハーフタイムに彼の周囲に群がった人垣(サインを求める子供たちの列までできていた)は、彼がどれだけチュニジアの人々に愛されているかを雄弁に物語っていた。
試合が終わった後、宿泊先のホテルにスコーリオを訪ねて、話を聞いた。
——ワールドカップがあと2ヶ月足らずに迫っているというのに、チュニジア代表は、1月のアフリカ・ネーションズ・カップでのふがいない敗退以来続く混迷から、依然として抜け出せずにいるように見えます。アンリ・ミシェルが指揮したチュニジアの試合はご覧になりましたか?
「ああ。アフリカ・ネーションズ・カップには落胆させられた。あれは私のチームではなかったし、私の選手たちでもなかったからだ。私のチームは、前輪駆動の、すごく攻撃的なチームだった。32試合で62ゴールを挙げた。無得点は3試合だけだ。ところがここ6試合、チュニジアは1点も挙げていない。残念ながらアンリ・ミシェルの残した結果はネガティヴなものだ。これは明らかな事実だ」
ネーションズ・カップの結果を否定的に受け取ったのは、もちろんスコーリオだけではなかった。
「ネーションズ・カップの失敗は、チュニジアサッカーにとって大きな傷だった。1勝もできないどころか、1点も取ることができずに敗退するという結果は、チュニジア国民にとっては受け入れがたいものだった」
そう語ったのは、チュニジア唯一のアラビア語スポーツ週刊誌『オスボア・リアディ』の編集長、ネビール・トリリ氏。大会後、アンリ・ミシェルを非難する空気が、サッカー協会からメディア、国民にまで、一気に広がったことは、想像に難くない。
その約2ヶ月後、3月13日に行われた韓国戦が0-0に終わったのを見るや、しびれを切らしたチュニジアサッカー協会は「代表の秩序を取り戻す」という名目で、ミシェルの片腕だったアルベール・リュストを解任し、アンマール・スワイヤハとハマイエス・ラビディという、ふたりのチュニジア人監督を、アシスタント・コーチとして採用するよう迫った。3月25日、2日後に予定されていたノルウェー戦に備えて召集された代表合宿の宿舎で、その一件を巡って協会幹部と言い争ったミシェルは、口論の勢いで「それなら私も辞める」と口走ったらしい。
売り言葉に買い言葉。しかし、協会の対応は必要以上に素早かった。その日、午後の練習に公証人を呼びだし、監督が現場に姿を現さなかった旨の公正証書を作成させる。これで、協会の都合でミシェルを“解任”したわけではなく、本人が“辞任”を表明して職務放棄したという、動かぬ証拠が整った。
このアンリ・ミシェルの“強制解任劇”は、チュニジア代表混迷の頂点だった。27日のノルウェー戦は、とりあえず2人のアシスタント・コーチが指揮を執ったが、またも0-0の引き分けに終わる。焦点は、誰が次期代表監督となるかに絞られた。
そこでまず浮上したのは、やはりというか、案の定というか、フランコ・スコーリオの名前だった。代表に召集されていた24人の選手のうち22人が、彼の代表監督復帰を求める嘆願書に署名して、協会に提出したのだ(ちなみに、署名しなかったのは、アデル・セリミとハテム・トラベルシ)。そう、スコーリオはチュニジアの人々だけでなく、代表選手たちからも慕われているのである。
ところが、3月30日にサッカー協会が発表した決定は、意外なことに、ふたりのアシスタント・コーチをそのまま監督に昇格させるというものだった。形式上はスワイヤハが監督、ラビディがアシスタント・コーチだが、実質的には2人が対等の関係だという。
今年45歳を迎えるスワイヤハは、国内の2部、3部チームの監督を10数年務めた後、チュニスの郊外にあるハマム・リフというクラブを1部に昇格させ、翌年、国内カップを勝ち取るという偉業を果たした、上昇機運に乗る若手監督である。
それを補佐するラビディ(52歳)は、78年W杯出場歴を持つ元代表選手。引退後は1部リーグのクラブをいくつか指揮した後、昨年9月に地元開催で行われた地中海選手権で、U-21代表を率いて優勝を果たしている。
前出のスポーツ週刊誌『オスボア・リアディ』のトリリ編集長は、この異例といっていい人事を次のように解説してくれた。
「世論もメディアも、ミシェルの後任にはチュニジア人の監督を望んだ。協会がふたりのアシスタント・コーチを自動的に昇格させたのは、そういう圧力があったからだ。彼らを推薦したのは、サッカー協会の顧問を務めるユーセフ・ズアウイ。有力クラブチームの監督を歴任し、アラブ・クラブカップで優勝を飾っている。しかし、代表監督としては成功できなかった。94年のネーションズ・カップでも一次リーグで敗退し、それが国民にとっては大きな心の痛手になった。それ以来、残念なことにチュニジア人の監督は起用されなくなっていた」
“本命”のはずだったスコーリオにも、チュニジアから後任監督の話はなかったのか、と尋ねてみた。
「アンリ・ミシェルが辞任した後、代表の選手たち、サッカー協会会長、スポーツ大臣、ズリム・シブブ(大統領の娘婿にしてチュニジアスポーツ界唯一最大の黒幕)、フランス語系のメディア、すべてが私の復帰を望んだ。私は彼らの多くから連絡を受けた。しかし、私が現在仕事をしているリビアサッカー協会の責任者、サディ・カダフィ会長(カダフィ大統領の子息で、リビアの国内リーグでFWとしてプレーする現役プレーヤーでもある)に、チュニジアからの正式な要請は届かなかった。
問題はアラビア語系のメディアがかけた圧力だった。あるメディアは、“チュニジア人監督と地獄に堕ちる方が、スコーリオと天国に行くよりもましだ”という見出しを打った。ひどいネガティヴ・キャンペーンだ。
いや、もっとはっきりいおう。これは明らかな人種差別だ。単に外国人だからという理由でスコーリオを受け入れないのだとすれば、それはスポーツという文脈だけでなく、社会的、政治的にも重大な過ちだ。その種のナショナリズムが許容されるとすれば、エリクソンがイングランドを率いるのも、トゥルシエが日本を率いるのも、許されないということになる。違うかね?」
彼は誇らしげに「チュニスの人々は、スコーリオが代表監督として戻ってくることを望んでいる。私はそれを知っているし、君もそれをはっきり感じただろう」と続けた。復帰を望んでいることは明らかだった。
しかし実際に選手たちや町の人々に取材をしてみると、新二頭体制発表から約半月を経たチュニスの空気は、彼の言葉とは少々異なっているようだった。
代表チームの周辺から、メディア、チュニスの街の人々まで、誰もが口を揃えて言ったことが二つある。ひとつは、「彼らの就任が決まってから、代表をめぐる混乱が一段落して空気が落ち着いた」。もうひとつは、「ミシェルの時はこれじゃダメだと思っていたけれど、これならワールドカップでもかなり行けるかもという気持ちになってきた」。
スワイヤハとラビディの二頭体制という“純血主義的な”解決は、チュニジアの人々にかなり肯定的に受け入れられているようなのだ。スコーリオよりも、彼が嫌うナショナリズムの方に、むしろ分があるという印象である。もう後がないから、外国人には頼らず、自分たちの力を信じて結束してやっていこうというポジティヴな空気が支配的、といえばいいだろうか。事実、選手を含め「スコーリオが戻ってくる可能性?今となってはもうゼロだね」と言い切る声も、決して少なくはなかった。
しかし、彼自身は、決してそうは思っていないようだ。
「ちょっと想像してみようか。17日にはスロヴェニア戦がある。この試合のための合宿は、2人の新監督が選手たちと相まみえる、実質的には初めての機会だ。もしそこで選手がこう言い出したらどうなるだろう?
我々がスコーリオを望んでいたこと、スコーリオを呼び戻すことも可能だったことを知りながら、どんなつもりで監督の仕事を引き受けたんですか?
とまあ、これは単なる想像に過ぎないがね。客観的に見れば、現時点で私がチュニジアに戻る確率は、0.1%くらいだろう」
一旦そう言っておきながら、スコーリオはこう続けるのだった。
「しかし私は、現在の体制が、協会が最も望んだ解決策ではないことを知っている。今のフキー会長にとって理想の監督、彼が求めるチュニジア代表監督はスコーリオだ。それは明白だ。会長が現状に満足しているわけはない。だとすれば、さっきの0.1%の火種はそこにあるとはいえないかね。
とりあえず、17日のスロヴェニア戦の結果、そしてそれ以上に内容が問題になるだろう。もし、2人の監督が協会の要求を満足させることができなければ、何かが起こる可能性は十分にある。私は、客観的かつ論理的に考えてそう思うがね」
——じゃあもし、17日の試合に誰も満足せず、チュニジアがリビアにスコーリオを貸してほしいと頼み、OKの返事をもらったとしたら、あなたはどうしますか?
「私はチュニジアを愛している。そして、サディ・カダフィの下で仕事をしている。カダフィから2ヶ月だけチュニジアに行ってくれといわれれば、喜んで引き受けるさ。引き受けない理由がどこにあるのかね」
結局のところ2人の新監督も、アンリ・ミシェル同様、スコーリオの影に脅かされながら仕事を続けなければならないようだ。ワールドカップ本番までにもう一度、スコーリオが密かに期待する最後のどんでん返しがあるのかどうかは、まだ予想すらつかない。
いずれにせよ、とりあえずのところ想定しておくべきなのは、スワイヤハとラビディの二頭体制によるチュニジア代表の方だろう。
チュニジアは、ワールドカップでどんなサッカーをすべきなのだろうか?この問いに対して最も多く帰ってきた答えは「結果よりもまず、いいサッカー、チュニジアのサッカーをすることを考えるべきだ」という言葉だった。
「ロシアと引き分けてベルギーと勝負だとか、日本とはどう戦おうとか、そういう計算をせず、ただ自分たちのサッカーを見せる、いいサッカーをするということだけ考えて精一杯プレーすれば、結果は自ずとついてくると信じている。引き分けを狙って負けたら、結果だけでなく自分たちの誇りや体面まで失うことになる」(ジアード/元代表のエース。ヴィッセル神戸でもプレー)
「大事なのはいいサッカーを見せることだ。世界にいい印象を与えることだ。チュニジアはワールドカップに勝つために日本に行くわけではないのだから、美しい、見て楽しめる試合を見せて、この国のイメージを世界にアピールしなければ。人々が求めているのは夢だ。みんな夢を見たいんだ。いいサッカーをすれば、弱いチームには勝てる。4年前のジャマイカだってそうだった。日本に勝っただろ?それに、負けてもいい印象を残せる。チュニジアはいいチームだったと世界から言ってもらえる」(ハメド・バッカール/チュニジア代表・マーケティング担当)
結果よりもスペクタクル。国のイメージを高めるいいサッカーを見せることが大事。これがチュニジアの世論である。素晴らしい。ジアードは続ける。
「いいサッカーとは何かって?それは、テクニカルで美しく、見て楽しいサッカーだよ。チュニジアのサッカーはブラジル・サッカーに近い。スピードよりもボール・ポゼッションを重視し、パスをつなぎ、あっと驚くようなプレーを見せる。フィジカル的にはヨーロッパやブラック・アフリカのチームに遅れを取っているし、最後の20mでなかなか効果的な攻撃ができないけれど、チュニジアにはチュニジアの良さがある」
そういうサッカーをどこかで見た覚えがある、と思ったら、チュニスのエル・メンサ・スタジアムでエスペランスが見せた、純正北アフリカ印のサッカーだった…。
しかしここで、チュニジア恐るるに足らず、と言い切ってしまうのは、あまりにも気が早い。ナショナリズム的な熱狂、チームとしての堅い精神的結束は、ワールドカップのような国際舞台ではしばしば、技術や戦術以上に強力な武器になるということを、決して忘れるわけにはいかないからだ。
さて、それでは、もし万が一、スコーリオがチュニジアを率いることになったとしたら、このチームには一体何が起こるのだろうか?
「エスペランスは、私の代表のベースとなっていたチームだ。ある時などは、控えも含めて11人も召集したことがある。私はチームに、ひとつの戦術的なアイディア、フィロソフィーを提示した。しかし、今日の試合に、私のサッカーの痕跡はほとんど見ることができなかった。1年で私が教えたことの多くが忘れ去られてしまったことは明らかだ」
——あなたのフィロソフィーとは?
「サッカーの戦術は、スペース、ボール、敵の選手という3つの要素を通して考えることができる。私は、チュニジア代表を主な舞台とする5年間にわたる深い研究の結果として、最も大事なのはスペース、次がボール、そして敵はほとんど無視してもいい、という結論に全面的な確信を得るに至った。
選手はスペースを征服するためにプレーする。したがって、ボールは征服すべきスペースに向かって送られることになる。だとすれば他の選手たちは、ボールが送られるスペースを、絶え間なく“攻撃”し続けなければならない。その必然的な結果として、シュートを放つべき決定機が訪れる。敵の選手は一切関係ないから考える必要はない。このフィロソフィーは、チュニジアでの最後の年に、全面的に実現された。
パスは3本まで。すべて前方のスペースに向けてパスを3本つないで、フィニッシュに持ち込む。4本はまあ許容範囲だが、5本以上パスをつなぐサッカーは、私の辞書には存在しない。ボールポゼッションという概念もない。選手はスペースを絶え間なく攻撃し続ける。これだけだ。シンプルだろう?」
——はあ。もし今チュニジア代表監督に復帰したとして、どこから手をつけますか?
「私があのチームと共にたどり着いた最後のところからだ。選手たちに私のアイディアとフィロソフィーを再提示し、受け入れられれば、もう一度すべてをものすごいスピードで復習しなければならない。1年というのは、一度身につけたことを忘れるためには十分な時間だが、1ヶ月か1ヶ月半あれば、少なくとも元のポイントまでは戻れるだろう」
——日本についての印象を教えて下さい。
「チームとして、非常によく構築されている。個人能力の高さ、戦術的な完成度、共に十分なレベルにある。展開の速さとプレッシングも、プラスアルファの武器だ」
——ロシア、ベルギー、日本。この3チームと、あなたのチュニジアはどう戦いますか?
「3つの異なる戦術、異なる試合運びをするだろう。戦術的に見て、非常に興味深いことになるはずだ。具体的にどうするかは、まだチュニジアに戻ってこないとは限らないので、今は言わないでおく。
ひとつだけ言えるのは、日本は3バックだから、私は自動的に3トップ、3-4-3システムを選ぶということ。両サイドのアタッカーは思い切り外に開かせる。もしトゥルシエが、最終ラインでの1対1を受け入れるのならば、素晴らしくスペクタクルな試合になるだろうね」
すっかりやる気である。確かに、純正北アフリカ印よりは、こちらの方がずっと面白そうだ。
17日のスロヴェニア戦を終えたチュニジア代表が次に集結するのは、5月5日の最終合宿である。そこに監督として姿を現すのは一体誰なのか。チュニスの動向からは最後まで目が離せない。
Posted: 火 - 10月 4, 2005 at 02:29 午前