月 - 11月 2, 2009

EURO2008出場を賭けたスコットランド戦(2007.11)


アーカイヴ#112。ドナドーニ監督時代のイタリア代表シリーズその4です。
フランス、ウクライナ、スコットランドと同居したEURO2008予選も大詰めとなった2007年11月、この試合に引き分ければ出場権獲得というアウェーのスコットランド戦を巡るプレビューとレビューです。いずれも『footballista』誌に寄稿したもの。プレビューにはドナドーニ監督に関する短いコラムもついています。この時点では、イタリアは十分強いように見えたんですよね(遠い目)。
ところで皆さん、『モウリーニョの流儀』はもうお読みいただいたでしょうか?詳しくは4つ下のエントリーをご覧下さい。

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1. プレビュー

「イタリアは引き分けのエキスパートだ。彼らには『この試合は引き分けるために戦おう』と言ってそれを実現できるだけのクオリティ、規律、秩序がある。もし私に金があったら、喜んで引き分けに賭けるところだ」
 これは、ワールドカップ決勝でイタリアに負けたことを今でも根に持っているフランス代表監督、レイモン・ドメネクのコメントである。

 スコットランドが10月17日、グルジアに敗れるという失態を犯してくれたおかげで、イタリアはこの試合に引き分けさえすれば、ユーロへの切符がほぼ確実に手に入るという立場になった。

 「勝たなければならない」と「負けなければいい」では、天と地ほどの違いがある。イタリアは過去にスコットランドの地で4度戦っているが、一度も勝ったことがない。2年前のワールドカップ予選でも引き分け止まりだった。だが、ドメネクの言う通り、イタリアは「負けないこと」に関しては一流である。それを考えれば、グルジアの勝利がどれだけ大きなプレゼントだったかもわかろうというものだ。

 スコットランドは、代表レギュラーの大半が所属するレンジャーズとセルティックの先週末の試合を延期するなど、国を挙げて代表を支援する態勢を敷いているようだ。しかしイタリアは、代表よりもクラブの都合が優先である。前回の国際Aマッチデーウィーク以来、アズーリのレギュラークラスはほぼ全員、セリエAと欧州カップ、週2試合ずつのハードスケジュールで7試合をびっちりこなし、疲労を着実に蓄積している。

 ドナドーニ監督にとって幸運なのは、チームの背骨であり絶対不可欠な存在であるFWトーニ、MFピルロ、ガットゥーゾ、デ・ロッシ、DFカンナヴァーロ、GKブッフォンというセンターラインが、やや疲労の色が見えるとはいえ揃って健在なこと。最終ラインは、マテラッツィとザンブロッタが故障でメンバーから外れているが、バルザーリ、オッドと代役が揃っており大きな不安はない。

 もしこれが「勝たなければならない」試合ならば、手薄な攻撃陣を不安視しなければならなかったところだが、今回は「負けなければいい」戦いである。「引き分けのエキスパート」たちは、アウェーの修羅場も十分に経験済み。一方、勝つしかないスコットランドは、最大の武器である堅守速攻をどこかで捨て、意を決して前に出なければならなくなるはずだ。イタリアは無理をせずにじっくりと構え、その時を待ってカウンターでとどめの一撃を狙おうとするだろう。イタリアの計算高さ対スコットランドのブレイヴハート。サッカーの神様はどちらに微笑むだろうか。□
 
●予想スタメン(4-3-3)
GK:ブッフォン
DF:オッド、カンナヴァーロ、バルザーリ、グロッソ
MF:ガットゥーゾ、ピルロ、デ・ロッシ(アンブロジーニ)
FW:イアクインタ(クアリアレッラ)、トーニ、ディ・ナターレ


2. プレビューコラム:ドナドーニの権威

 歴代のイタリア代表監督の中で、ロベルト・ドナドーニほど世間から軽く見られている監督はいないだろう。

 U-21代表やクラブで充分な経験と実績を積み、評価を確立した指揮官が就くべき名誉あるポストだった代表監督の座に、セリエA下位チーム(リヴォルノ)の監督をたった1シーズン半務めただけで就任したのだから無理もない。しかも、カルチョスキャンダルによる権力の空白状態の中で、まったくの門外漢である臨時コミッショナーによって任命されたという就任の経緯も、代表監督としての権威にはそぐわない。

 つまるところ、ドナドーニの代表監督というのは、例外的な特殊事情がもたらしたアブノーマルな事態であり、遅かれ早かれ何らかの形で「正常な状態」に戻るべきだと、広く考えられているということだ。

 「正常な状態」というのは、然るべき人物が監督の座に就くか、あるいはドナドーニが実績を作ることによって然るべき人物と認められるようになるか、そのどちらかである。いったいどちらになるのか、その最初の重要な関門が、今回のスコットランド戦ということになる。

 もしこの試合を落とし本大会出場を逃すようなことになれば、石もてその座を追われること確実である。後任には、最近になって急に「もうすぐ現場に復帰できる環境が整う」と言い出した前監督マルチェッロ・リッピがスタンバイしている。ワールドカップを勝ち取った2年後にユーロ予選で敗退するという許されざる恥辱からアズーリを立て直すリーダーとして、国民的なコンセンサスを得られる唯一の存在だ。

 だが、たとえ本大会出場を果たしたとしても、今度は本大会というハードルが控えている。グループリーグ突破はいわずもがな。少なくともベスト4に進出しない限りは、やはり失格の烙印を押される可能性が高い。要するにドナドーニは、誰もが納得する結果を出さない限り、いずれにしても来夏限りでお役御免になる運命にあるということだ。その場合の後任は、もちろんリッピである。□
 
3. マッチレポート:スコットランド1-2イタリア

 引き分けでもOKの試合で2-1の勝利を収め、あと1戦を残して予選突破を決めたのだから、結果には文句のつけようがない。しかしこの試合、勝負は本当に紙一重だった。

 1-1で迎えた後半36分、スルーパスに反応して裏に抜け出したミラーからの折り返しが、ファーポストにフリーで走り込んだマックファーデンにぴったり合った時には、本当に肝が冷えた。もしこのシュートが枠を捉えていれば、イタリアは奈落の底に突き落とされていたはずだったのだ。

 開始直後の先制ゴールで大きく優位に立ったところまでは注文通りだったが、その後の風向きはむしろイタリアにとって逆風だった。

 主導権を握って試合を進めていた前半31分、ディ・ナターレがこぼれ球を押し込んで決めたゴールは、存在しないオフサイドで取り消され、後半20分に同じようなシチュエーションから決まったファーガソンの同点ゴールは、明らかにオフサイドだったにもかかわらず認められる。

 2-0のはずが1-1。サッカーの神様は、明らかにスコットランドの肩を持っているように見えた。ほんの小さな不運も、2つ、3つと重なれば致命的なダメージにつながりかねないものだ。

 だがイタリアは、ドナドーニ体制になってから最も説得力のある内容と断言できる力強い戦いぶりで、その逆風をはね返した。

 アウェーのプレッシャー、低い気温、雨、重いピッチという不利な状況にもかかわらず、フィジカルなぶつかり合いを挑んできたスコットランドに一歩も引かず応戦、1点リードしてからも受けに回ることなく、陣形をコンパクトに保ち高い位置から積極的なプレッシングを続ける。計算高く引き分けを持ち帰ろうという狡猾な姿勢はかけらも見せず、正攻法で勝利をもぎ取るという強い意志を最後まで貫いたことは、特筆に値する。

 トッティもデル・ピエーロもいないアズーリは、ワールドカップを勝ち取ったチームよりもさらに地味で華がない。しかし、11人全員の献身に支えられた戦術的秩序、チームとしての結束力は他を寄せ付けないレベルにある。本大会ではやはり優勝候補の筆頭、と言いたくなるだけの実質が、この日の戦いには詰まっていた。■

(2007年11月10日&18日/初出:『footballista』)

Posted at 01:09 午前    

月 - 10月 19, 2009

ドナドーニの受難(2007.03)


アーカイヴ#111。ドナドーニ監督時代のイタリア代表シリーズその3です。
サン・ドニでのフランス戦についての長いレポートは、すでに掲載済みでした。これはその半年後の2007年3月、EURO2008予選が本格化してきた時期の原稿です。つい先日ナポリ監督を解任されてしまったドナドーニ氏、マスコミやサポーターに不人気なのは、あまりに真面目かつ堅物で「空気が読めない」ところが原因のような気がします。ディノ・ゾフ(本来ならばイタリアサッカー協会会長になってもおかしくない偉大な人物です)なんかにも共通するところがありますね。
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 3月28日にバーリのスタディオ・サン・ニコラで行われたユーロ2008予選グループBのイタリア対スコットランドは、イタリアがトーニの2ゴールで2-0と勝利を収め、勝ち点を10に伸ばした。

 イタリア、フランス、ウクライナと、ドイツ・ワールドカップのベスト8が3ヶ国も同居するグループBは、そこにホームでフランスを破るという大殊勲を挙げた伏兵スコットランドが割り込んで来たこともあって、大混戦の様相を呈している。その中で、世界王者の看板を背負うイタリアは、予選5戦目となるこの試合を迎えた時点で、5試合を消化して勝ち点12で並んだフランス、スコットランド、ウクライナに5ポイント差をつけられての4位。ここでスコットランドに勝てなければ、まだ1年半も先を残しながら本大会出場の可能性が大幅に狭まるという、非常にクリティカルな状況に置かれていた。

 今回の国際Aマッチウィーク、イタリアはこの1試合だけで、前週土曜日には試合が組まれていなかった。3月19日の代表合宿招集から試合までたっぷり10日間、準備の時間があったわけだが、問題は例によって、毎日の誌面を埋めなければならないマスコミの存在である。

 試合のプレビューが「ここで勝てなければ大変なことになる」という煽り方になることは避けようがなかった。それだけならまだいいが、イタリアらしいのは、すぐに「もし勝てなかったら監督交代は必至。次は誰だ?」という議論の方が、いつの間にか中心になってしまうところ。

 これがちょうど、ミランのアンチェロッティ監督があるインタビューで「将来は代表監督をやってみたい。ドナドーニが彼のサイクルを終えてからの話だけど」と口にしたのと重なっただけでなく、移籍マーケットまわりの報道で「ミランがマルチェッロ・リッピ元代表監督に来期の監督就任を打診した」という噂(たぶん事実)までが飛び交っていた時だったからさあ大変。

 あっという間に、1)ドナドーニの立場は微妙、2)アンチェロッティは代表監督を夢見ている、3)ミランが次期監督にリッピをリストアップ、という3つのストーリーが各紙記者の間で脳内変換されて、「ミランは、かつてアリーゴ・サッキを厄介払いした時と同じように、アンチェロッティを代表に押し込んでリッピを次期監督に迎える。ドナドーニは6月でクビ」という話が、あたかも既定の事実のように報道され始め、アズーリはその喧騒の中で、この大事な試合を迎えることになってしまった。
 
 もちろん、マスコミがすぐこうした論調に流れてしまう背景には、ドナドーニの手腕に対する不信感がある。クラブの監督としての目立った実績もなく、43歳で代表監督に就任したという、過去に例のない経緯。ユーロ予選では初戦にホームでリトアニア戦に引き分けて勝ち点2を取りこぼし、続くアウェーのフランス戦は1-3の完敗と、世界王者にはふさわしくない結果。試合ごとにシステムを変えるわかりにくい采配。どんな時にも声を荒げることなく淡々と選手に接する、見方によっては弱腰とも取られかねない態度。イタリアが、安心して代表チームを委ねることができる器かどうか、ドナドーニの手腕を未だ量りかねていることは間違いなかった。とは言っても、一連の報道が、あまりにドナドーニに対するリスペクトを欠いていたことも明らかな事実だったが。

 ドナドーニは、試合前日の記者会見で、淡々と、しかしきっぱりと反論する。
「この1週間、ありとあらゆる種類のデマやでっち上げを読まされてきた。結果が出せない時に叩かれるのは当然だが、我々はまだ戦ってもいない。こんな馬鹿げたゲームに乗せられるつもりはない」
 
 肝心の試合は、立ち上がりからイタリアが主導権を握る。とはいっても、積極的に攻め立てるというよりは、慎重に試合をコントロールしながら、勝負に出るタイミングをうかがう、いつもの戦い方だ。実力を比較すれば明らかに格下のスコットランドは、しかもアウェーでは大きくパフォーマンスを落とす、典型的な“内弁慶”である。前半12分、セットプレーからトーニが頭で押し込み、あっけなくイタリアが先制。その後もピンチらしいピンチを迎えることなく落ち着いて試合を運び、後半25分にトーニがヘッドでもう1点決めて、何の波乱もない順当過ぎるほど順当な2-0で終了した。

 これでイタリアは、勝ち点12で首位に並ぶ3ヶ国(スコットランドのみ6試合消化)に、2ポイント差まで詰め寄った。このライバル3ヶ国との直接対決の成績は2勝1敗。勝負の行方は、来年9月のフランス(ホーム)、ウクライナ(アウェー)との連戦で決まることになるだろう。

 試合の翌日、ドナドーニは淡々とこう語った。
「これから当分、代表の話題が俎上に上ることはないだろうが、6月にはまた、ほんの数日間にすべてが集中することになる。せめて次回は最低限の経緯は払っていただきたい」

 しかし、マスコミにはマスコミの都合がある。格下相手の勝利を手放しで褒め称えて監督への評価を変えるほど、おめでたくもない。6月はリトアニア、フェロー諸島とのアウェー2連戦。もしここで勝ち点6を確保できなければ、また“馬鹿げたゲーム”が始まることは間違いない。□

Posted at 12:36 午後    

日 - 10月 11, 2009

カッサーノに未来を託すドナドーニの新生アズーリ(2006.09)


アーカイヴ#110。10月10日のアイルランド戦にドタバタで引き分けたイタリア代表は、無事に南アフリカ行きの切符を手に入れました。試合の詳細は水曜発売の『footballista』に寄せたマッチレポートをご参照いただくとして、それを書いていて、このアーカイヴで「イタリア代表の歩みシリーズ」がやりかけになっていたのを思い出しました。ということで、これから少しずつ、2006年秋以降のアズーリについて書いた原稿をアップして行くことにします。
まずは、ワールドカップ優勝後のチームを引き受けることになったドナドーニ体制の船出について。この後すぐにサン・ドニでフランスと対戦したイタリアは、3-1で完敗を喫することになるのですが、それは次回のお楽しみということで。
ところで皆さん、『モウリーニョの流儀』はもうお読みいただいたでしょうか?詳しくは2つ下のエントリーをご覧下さい。

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 ワールドカップが終わって2ヶ月。日本がすでにアジアカップ予選を戦い始めたのと同様、ここヨーロッパでもすでに、次のビッグトーナメントである2008年欧州選手権(スイスとオーストリアの共催)に向けた予選が始まっている。

 ドイツで世界の頂点に立ったイタリアは、リッピ監督の勇退後、年功序列的な色彩が強かった従来の代表監督選考の慣習を覆し、指揮官としてこれといった実績を持たない43歳の若手監督ドナドーニを後任に据えて、新たなスタートを切った。

 表面的には、クリンスマン~レーヴ(ドイツ)やファン・バステン(オランダ)、ドゥンガ(ブラジル)といった、サッカー大国の若手監督ブーム?にイタリアも乗った格好だが、実際には、絶対的な有力候補がおらず、かなり場当たり的に選ばれた感がなきにしもあらず。カルチョスキャンダルの影響もあってイタリアサッカー協会の権力中枢が空洞化しており、絶対的な権限を持つ会長が不在という事情もあって、今回はキャプテンのカンナヴァーロをはじめとする選手たちの意見もかなり影響したようだ。何にせよ、この選択が吉と出るか凶と出るかは、これからの結果次第であることに変わりはない。

 で、その結果なのだが、これが芳しくない。8月16日に戦ったクロアチアとの親善試合は0-2で敗戦。これは、ワールドカップ組がひとりも入っていない「Bチーム」だったので参考記録でしかないが、9月2日にナポリで戦った欧州選手権予選の初戦で、FIFAランキング67位(イタリアは2位だ)のリトアニアと1-1で引き分けてしまったのだ。これはちょっと嫌な兆候である。

 ドナドーニは、就任当初から「リッピの路線を継承する。大きくチームをいじることは考えていない」と宣言してチーム作りに取り組みはじめた。基本に据えたシステムは、攻撃志向の強い4-3-3。ワールドカップで優勝を勝ち取った4-4-1-1よりも、ずっと前がかりの布陣である。

 それでどこがリッピ路線の継承なのか、と訝る向きもあるかもしれない。しかしリッピは、就任からワールドカップ直前までの2年間を通じ、「常に前線に3人のアタッカーを起用する」という攻撃的な姿勢を打ち出して、実際に結果を残してきた。ワールドカップ本番でも、当初は2トップとトップ下を前線に配した4-3-1-2でスタートしているのだ。

 結果的に、大会の途中でより守備を重視した4-4-1-1へとシステムを修正、堅固なディフェンスを土台にした手堅いサッカーへの路線変更を通じて優勝を勝ち取ったことも事実ではある。しかしそれは、トップ下で攻撃の中核となるべきエース・トッティがコンディション不良で攻守のタスクをこなし切れず、本来目指していた路線を修正せざるを得なかった結果である。もしトッティが完調で、トップ下に求められる守備の仕事をこなしながら、攻撃の局面で決定的な違いを作りだせるコンディションにあったら、リッピ監督は4-3-1-2を維持したまま最後まで戦ったことだろう。

 そしてドナドーニは今、前任者リッピにとって一種妥協の産物でもあった4-4-1-1の現実路線ではなく、本来打ち出してきた「3アタッカー路線」の方を継承しようとしている。この方向性は、できれば順調に発展してチームとして完成した姿を見てみたいと思わせる、好ましい方向性である。

 だが、リトアニア戦でのイタリアは、まだセリエAが開幕しておらず実戦感覚もフィジカルコンディションも十分とはいえないこともあって、コンパクトな陣形を保ち切れずにチームが間延びし、運動量の多い相手に振り回されて対応が後手後手に回るという悪循環で、主導権を握れず思わぬ苦戦を強いられた。相手が明らかな格下であることを考えれば、見るに耐えない内容だったと言うことすらできるかもしれない。

 前線にひとり多く人数を割く分、攻守のバランスを取るのが難しい4-3-3というシステムを機能させるために十分な条件(フィジカルコンディションやチームとして練習する時間)が整わないまま、強引に実戦に導入したのが裏目に出た格好である。

 その中で唯一、明るい材料といえるのが、1年数ヶ月ぶりにアズーリに戻ってきた天才児/問題児カッサーノのプレーだった。所属するレアル・マドリードに恩師カペッロがやってきたことでモティベーションを取り戻したのか、2年前のユーロ2004でのプレーを彷彿とさせる、トリッキーなドリブル突破でほとんどのチャンスに絡む活躍。チームが守備に回った瞬間にボールへの興味を失うのは相変わらずだが、それでもイタリアが作り出した3つの絶対的な決定機をすべて演出したことを考えれば、トータルでの収支は圧倒的なプラスである。

 トッティが代表引退をほのめかし、デル・ピエーロがもはや斜陽の時期を迎えた今、個人の力で決定的な違いを作り出し、チームを勝利に導くことのできるタレントは、カッサーノ以外にはいない。まだレアルで実績らしい実績を残していないにもかかわらず、ドナドーニが彼をあえて招集し、背番号10を委ねてピッチに送り出したのも、それを深く知るからだろう。イタリアに残された最後の原石を、何としても世界に誇る宝石にまで磨き上げなければ、アズーリに未来はないかもしれないのだ。

 攻撃志向の4-3-3システムとアントニオ・カッサーノ。これが、ドナドーニ監督の下で新たなスタートを切ったアズーリの出発点である。このチームが結果を残しながら順調に成長していくのか、それともこのままきっかけを掴めず路線変更を強いられるのか。フランス、ウクライナと同居する困難な欧州選手権予選を戦うイタリアの最大の注目点はそこにある。■

※注
欧州選手権予選は、UEFA加盟52ヶ国のうち開催国のスイス、オーストリアを除いた50ヶ国を7グループに分け、ホーム&アウェーの総当たりで行われる。本大会出場は各グループの上位2ヶ国(と両開催国)。イタリアの入ったグループBは、イタリア、フランス、ウクライナ、スコットランド、リトアニア、グルジア、フェロー諸島という7ヶ国。ワールドカップ8強のうち3ヶ国が同居する激戦区である。□
(2006年9月3日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」)

Posted at 12:05 午後    

月 - 9月 28, 2009

イタリアから見たスペインサッカー(2007.07)


アーカイヴ#109。2007年の夏、『footballista』誌のスペインサッカー特集(確か)に寄せた原稿です。
これを書いてから2年あまりの間に、スペイン代表がユーロ2008で優勝し、バルセロナが昨シーズンのCLを制しと、「美」と「勝利」の両立というロマンチックな夢が次々と現実になりつつあります。でも、長い歴史と文化に培われたイタリア人のサッカー観は、そう簡単には変わりそうもありません。この間も代表監督のマルチェッロ・リッピが、「サッカーの質?重要なのは結果だ。イタリアはブラジルではない。華麗なサッカーを見せるのは100年経っても無理だが、チームの結束と勝利への執念で結果を掴み取ることにかけては誰にも負けない。我々にはワールドカップを連覇する力がある」と力強く断言していました。そっちの方がずっとロマンチックな夢のような気もしてきますが……。
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 イタリアにおけるスペインサッカーのイメージをひと言でいえば、「テクニカルで攻撃志向が強い、スペクタクルなサッカー」というもの。非常に客観的かつ的確な理解である。

 では、そこに価値判断が加わるとどうなるか。意外に思われるかもしれないが、ほとんどの場合その評価はいたってポジティブなものだ。リーガやプレミアの試合もチェックしているコアなサッカーファンに始まって、サッカーの世界に関わっているジャーナリスト、そして選手や監督まで、スペインサッカーを悪く言う声を耳にすることはほとんどない。

 「リーガの方がスペクタクルで面白い」と言うファンは少なくないし、弱小チームですら攻撃的な姿勢を貫くスペインサッカーのメンタリティを持ち上げて、自陣に引きこもったまま格上の相手にやられっぱなしで負けたチームの不甲斐なさを叩くジャーナリストもいる。いい試合をすれば負けても拍手してくれるスペインの観客のことを羨ましそうに語る選手や、理想はバルセロナのような攻撃的サッカーだがここイタリアではとても不可能、とこぼす監督だっている。

 「隣の芝生は青い」ではないが、カルチョの世界の人々は、スペインを見ると総じて、「いいよな、ああいうサッカーができて」と、ちょっと羨ましく感じているように見える。ただ、羨ましいとはいっても、どこかに、所詮は他人事、という突き放したニュアンスがあることも事実だ。実際、じゃあ自分も「ああいうサッカー」がしたいかということになると、話はまったく違ってくる。

 「美しいサッカー」、「スペクタクル」といった言葉を巡って、カルチョの世界の人々と話をすると、返ってくる答えはいつも同じである。「美しく勝つ」というのは、誰もが夢見るユートピアだ。でもユートピアはユートピアでしかない。勝つためには、現実を直視し受け入れることが必要だ。望むもの全ては得られない――。

 イタリアのサポーターやクラブ経営者がチームに要求するのは、とにかく結果である。どんなにいいサッカーをしても、負けが続けば許してもらえないし、毎週のように退屈な試合を続けても、結果さえ出していれば誰も文句は言わないというのがカルチョのシビアな現実だ。なぜそうなのかは、それをネタに本を1冊書けるくらい深遠なテーマなのでここでは掘り下げないが、「美しいサッカーをして負けるよりも、ひどいサッカーをして勝つ方がずっといい」というのが、イタリアにおける絶対多数の意見であることは間違いない。そういう環境の中で生きていれば、結果「だけ」を目的として全面的に追求する姿勢が発達し、洗練されていくのは当然の帰結だろう。

 イタリア人だって、「美」や「スペクタクル」が嫌いなわけではない。だが彼らにとってそれはきっと、勝利をストイックに追求する上では否応なく犠牲にせざるを得ない付加価値、一種の「贅沢品」のようなものなのだ。それは、勝つ可能性、負けない可能性を最大化しようとする中では、無駄であり非効率なものでしかない。

 結果「だけ」を徹底的に追求するというのは、決して楽しいことではない。むしろ退屈で疲れる仕事だ。しかも、結果「だけ」を目的として戦う限り、結果が出なければ成果はゼロ。逃げ道はどこにも残されていない。それでもイタリア人は、そういうシビアな状況を進んで受け入れ、その中で戦い続ける。それはきっと、そのしんどい仕事が勝利という結果で報われたその瞬間にこそ、最大の歓びやカタルシスを感じられるからなのだろうと思う。勝利というのはハードワークと犠牲によって勝ち取るもの、というのが、イタリアのサッカー観であり人生観なのである。

 彼らが「いいよな、ああいうサッカーができて」と呟くときに、「美」と「勝利」が両立できると信じて疑わないスペイン人のロマンチックな純粋さ(ナイーブさとも言う)に微苦笑しているようにも見えるのは、だからたぶん深読みではないと思う。□
(2007年7月31日/初出:『footballista』)

Posted at 01:28 午前    

日 - 9月 13, 2009

宣伝:拙著『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)が発売されました






え~、9月7日に河出書房新社から拙著『モウリーニョの流儀』が発売になりました。

これまで訳書は8冊ほど出してきましたが、自分で書いた著書はこれが初めてです。
ぼくのこれまでの仕事を(多かれ少なかれ)ご存じの方々は、なんで片野がモウリーニョ本なのか、という疑問を抱かれるかもしれません。その点については、以下にコピペする本書の「あとがき」を読んでいただければと。

もしご興味を持っていただけたら、書店で一度手に取ってご覧下さい。もちろん、AmazonなどのWEBブックショップで直接ご注文いただいてもOK。ご購入の上ご一読いただければとても嬉しいです。どうぞよろしく。

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あとがき

 本書は、いまサッカー監督として世界で最も大きな注目と評価を集めているジョゼ・モウリーニョがイタリアの名門クラブ・インテルの監督に就任した1年目のシーズンを、ニュートラルな立場から観察し描いたノンフィクションである。

 イタリアで活躍するポルトガル人監督の仕事を日本人記者が描く、という構図は、いささか奇妙に映るかもしれない。しかし筆者は、本書に存在意義があるとすれば、まさにその点ではないかと考えている。

 筆者は14年前からイタリアに生活の基盤を置き、イタリアサッカーを主対象にした取材・執筆・翻訳を仕事にしてきた。端っことはいえカルチョの世界の内側にあって、その外からやってきたモウリーニョを迎え入れる立場にあったわけだ。

 しかし同時に筆者は、モウリーニョがそうであるのと同様、イタリアにおいては外国人であり、その意味においてアウトサイダーでもある。イタリアという社会、カルチョの世界が自然なもの、自明のこととしている考え方や事柄がしっくりこない、すんなり理解できないということも稀ではないし、逆にその違和感に説明をつけることが仕事の一部になってもいる。

 イタリアとモウリーニョ、それぞれの視点を借りて物を見ることができる一方で、そのいずれにとっても他者であるがゆえに、どちらからも距離を置いて冷静に観察することもできるというのは、ある意味で非常に恵まれた特殊な立場だ。

 この立場からイタリアにおけるモウリーニョの1年間を追うことによって、イタリアというフィルターを通して見えてくるモウリーニョという監督の卓越性と革新性、そして人間的魅力を描き出すと同時に、モウリーニョというフィルターが浮かびあがらせるイタリアサッカーの現在、カルチョの世界の奥深さを、日本のサッカーファンに伝えることができるのではないか、というのが、この本を書きたいと思い立った一番の動機である。

 それがどこまでうまくできたかは、読者のみなさんのご判断に委ねるしかない。しかし少なくとも、モウリーニョという監督、インテルやイタリアサッカーに関心がある方はもちろん、すべてのサッカーファンに興味深く読んでいただける内容になったとは思う。 
 2009年7月28日   片野道郎


Posted at 01:33 午前    

土 - 9月 12, 2009

チャンピオンズリーグの未来(2007.05)


アーカイヴ#108。すっかり間が空いてしまいましたが、新シーズンも始まったことだし、自分で書いた初めての本『モウリーニョの流儀』も出版されたことだし、このアーカイヴだけでも復活しようと思います。

半年ぶりに復活した1回目は、2年半ほど前、06-07シーズンの終わりに『footballista』に書いた、CLの未来像についての原稿。同誌の最新号に寄せた原稿と内容が同じじゃないか、という声もあるかと思いますが、そこは、(手前味噌ながら)意見にブレがないとか先見の明があったとか、そういうポジティブな側面に目を向けてお許しいただければと。

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 今年の1月にUEFA会長に選任されたミシェル・プラティニは、会長選挙への出馬にあたって「スペイン、イングランド、イタリアからCLに各4チームは多すぎる。予備予選枠をなくす代わりに3チームを上限として、その枠を中堅国に回すべき。ポーランドやブルガリアにもCLに出場する権利はある」と語り、この改革を半ば公約のような形で掲げるなど、現在のビジネス・オリエンテッドなCLのあり方に否定的な見解を表明してきた。

 さる5月28日にチューリッヒで開かれたUEFA特別総会では、各国のリーグ、クラブ、選手の代表からなるプロサッカー戦略評議会を設置し、メガクラブと中小クラブ、強豪国のスター選手と弱小国のセミプロ選手が同じテーブルに着いて、欧州サッカーの未来について話し合っていく仕組みがセットアップされた。CLの改革案も、そこで取り上げられることになるものと見られる。

 もしプラティニが提唱してきた改革案が実現するとなれば、CLはいったいどんな方向に向かうことになるのだろうか。
 表3は、UEFAが過去5年の欧州カップにおける成績を元に算出しているカントリーランキング上位20ヶ国のリーグ優勝クラブがそれぞれ、UEFAクラブランキング(元になっているデータは同じ)で何位にいるかを示したもの。ウクライナ以下の中堅国チャンピオンは、軒並み50位以下である。レベル的には、53位のアンデルレヒトが今シーズンのGLで軽く敗退したくらいだから、それ以下は推して知るべし。

 強豪国の参加枠が減り、これら中堅国に本戦出場のチャンスが増えればCLはどうなるのか。明らかに予想できるのは、グループリーグの試合の質が低下することだ。強豪同士が同じグループに入る可能性が減り、1強3弱のグループが増える。マスコミが注目するビッグカードは少なくなり、強豪はもっぱら格下と戦って、早々と勝ち上がりを決めることになるだろう。

 逆に、グループ2位争いは白熱するかもしれない。だが、例えばレフスキ・ソフィア対FCチューリッヒの試合が、どれだけ世界中の人々の関心を引くだろうか。セヴィージャ対ラツィオほどでないことは確かだろう。世界市場全体で見れば、グループリーグへの注目度は下がる可能性が高い。

 ベスト16はともかく、ベスト8に勝ち残る顔ぶれは、強豪国のメガクラブに固定化されたままだろう。準々決勝から先に、ヨーロッパの頂点を争う最高レベルの戦いが凝縮されるという点でも、今とまったく変わらないはずだ。とはいえ総合的に見ると、エンターテインメント・コンテンツとしての市場価値は、グループリーグの興味が薄れる分低下することになりそうだ。

 一方、間接的な波及効果としては、強豪国の国内リーグ活性化(CL出場枠がひとつ減れば競争は激化する)、そしてUEFAカップの再活性化が予想される。これまでCLの常連だったメガクラブも、ひとつ間違うとUEFAカップに格下げになるわけで、CL拡大と反比例して権威と注目度が低下し、今や「欧州カップのセリエB」と化していたUEFAカップが、かつてのような魅力を取り戻す可能性がある。もし本当にそうなって、CLへの一極集中が緩和されるのだとしたら、欧州サッカー全体にとっては悪いことではないだろう。

 チャンピオンズリーグを、エンターテインメント・コンテンツとしてのみとらえ、ビジネスの論理を徹底して貫こうとするのならば、UEFAクラブランキングの上位32チームを集めた、文字通りの「欧州最強クラブ決定戦」にするのが一番いいはずだ。現在のランキングをもとにした時の国別の出場クラブ数は、スペイン7、イングランド6、イタリア5、ドイツ4、フランス3、オランダ3、ポルトガル2、ギリシャ1。それ以外の国の弱小クラブはお呼びでない、ということになる。これならば、試合のレベルはグループリーグから今よりもずっと高くなるし、毎週注目カードの連続になるだろう。

 しかしこのコンペティションの元々の姿は、UEFA加盟各国のリーグ優勝チームが、トーナメント方式で欧州チャンピオンを決める欧州チャンピオンズカップである。つい10数年前までは全UEFA加盟国に、それこそルクセンブルグやマルタのクラブにだって出場権があったのだ。

 CLというコンペティションは、UEFAの収入の8割以上を占めるほど巨大なビジネスとなっている。しかし、そのビジネスが生む利益を、ごく一握りのメガクラブが山分けし、その後にはペンペン草すら生えない(というのは言い過ぎだが)現在のあり方は、欧州サッカー界全体の発展にとって、好ましいことなのだろうか。プラティニがCLの改革を提唱する背景にあるのは、まさにその問いかけである。

 プラティニはUEFA特別総会のスピーチで、こう語っている。「ビッグクラブに対して、公にこうお願いしたい。数多くの対立や訴訟を引き起こした自己中心的なエリート主義を捨て、他の全てのクラブに手を差し伸べてほしい。あなた方の経験と考えを欧州サッカー発展のために提供してほしい。全てのメンバーが民主的に力を合わせることによって初めて、サッカーの世界をより良くしていくことができるのだから」。

 資本の論理による競争と寡占から、協調主義的な共存共栄へ。限られたエリートを潤すビジネスの拡大よりも、欧州全体におけるスポーツとしてのプロサッカーの総合的な発展へ。プラティニの思想は明確である。

 CLのフォーマットが次に変更されるのは、09-10シーズンから。もし本当にプラティニの提唱する方向で改革が行われるのであれば、92年のCLスタート以来、初めての「揺り戻し」ということになる。ヨハンソンからプラティニへの政権交代によって、欧州サッカー界は、ビジネス化一辺倒の時代から、ビジネスの論理とスポーツの論理のせめぎ合い(あるいはバランス)の時代へと入った。それは、決して悪いことではないように見える。□
(2007年5月31日/初出:『footballista』)

Posted at 11:59 午前    

火 - 4月 28, 2009

イタリア代表、ドナドーニ新体制の船出(2006.08)


アーカイヴ#107。イタリア代表の歩みシリーズ(?)その13は、ついにドナドーニ時代に突入。たった2年間で、しかも後味の悪い終わり方をしたわけですが、これから追い追い見て行くように、チームができ上がっていくプロセスは決して悪いものではなかったように思います。ドナドーニは先日ナポリの監督に途中就任。オーナーであるデ・ラウレンティス会長の全面的な支持を得ており、クラブチームの監督としての手腕が問われるキャリア最大の節目になりそうです。

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◆  ◆  ◆


1)アルベルティーニが選んだアズーリ新監督

 8月も半ばを過ぎ、アルプスの北側ではとっくに06-07シーズンがスタートを切っているのだが、イタリアはまだ何もかもペンディングという状況が続いている。開幕はとりあえず9月10日ということになっているが、あと1週間くらい遅れることも十分あり得るだろう。

 国内のゴタゴタが続くのは勝手だが、国際レベルのカレンダーはいつまでも待っていてはくれない。CLはもう予備予選が始まっているし、代表だってあと半月後には、2年後のユーロ2008に向けた予選がスタートするのだ。ぼやぼやしていると、イタリアだけが世界の流れからおいてけぼりを喰らいそうな気配である。

 ユーロ2008予選でイタリアが入ったグループBは、フランス、ウクライナ、リトアニア、スコットランド、グルジア、フェロー諸島という、中堅国の層が厚いかなりの激戦区。しかも、9月6日には早くも、フランス対イタリアというワールドカップ決勝のリターンマッチが、しかもアウェーで組まれている。フランスの皆さんはきっと、手ぐすね引いて待っていることだろうが、イタリアの方は、どう考えても準備万端からはほど遠い状態でこの試合を迎えることにならざるを得ない。

 ワールドカップ優勝を勝ち取った指揮官マルチェッロ・リッピが、大会終了後に代表監督の座を自ら退いたのは周知の通り。優勝して勇退という最高のシナリオが実現したことで、本人にとってはめでたしめでたしだったわけだが、大変だったのは後任人事である。

 サッキ、マルディーニ、ゾフ、トラパットーニ、リッピと、実績十分の中堅・ベテラン監督が就くのが常だったアズーリ最高指揮官のポストに、ロベルト・ドナドーニという、セリエAでの実績すらほとんどない43歳の若い監督が就任したという結末そのものが、事態の難しさを象徴している。

 これまでもこのコラムで何度か触れてきたように、イタリアサッカー界は今、権力の空洞化状態が続いている。なにしろ、頂点たるべきサッカー協会(FIGC)からして、独禁法の専門家であるグイド・ロッシ特別コミッショナーによる経営管理下にあるのだ。この体制は、カルチョの世界が構造的に抱えていた腐敗を一掃するという観点からすれば、確かに一定の成果をあげつつある。しかし、まさにそれゆえ、代表監督人事という純粋にサッカー的な問題に直面した時には、トップであるロッシ特別コミッショナーがまったくの門外漢であり、自らの責任で意思決定を下せる知見も経験も持ち合わせていないという矛盾に直面することになってしまった。

 誰もが納得するであろう自然の流れからすれば、リッピの後任に最もふさわしいのは、ファビオ・カペッロ、カルロ・アンチェロッティのどちらかだった。いずれも文句のつけようのない実績を持った名将であり、いずれは代表監督に、という野心も以前から表明してきた。しかし、カペッロはレアルの監督を引き受けたばかり。アンチェロッティも、一度はそのレアルの監督就任を内諾しながら、ベルルスコーニ会長に契約解消を認めてもらえずにミラン残留が決まったという状況で、代表監督を引き受けられるようなタイミングではなかった。

 この2人の目がないとなると、候補者の顔ぶれはぐっと小粒になってしまう。その当然の帰結として、誰もが納得する人選も不可能になる。選考の過程で挙がった名前は、アルベルト・ザッケローニ(元ミラン、インテルなど)、クラウディオ・ラニエーリ(元ヴァレンシア、チェルシーなど)、ジャンルカ・ヴィアッリ(元チェルシー、ワトフォード)、クラウディオ・ジェンティーレ(U-21代表監督)、そしてドナドーニといったところ。

 最高責任者であるロッシ特別コミッショナーに判断能力がないという特殊な状況の中で、選考において大きな発言権を持ったのが、副コミッショナーであるデメトリオ・アルベルティーニだった。90年代を通してミランとアズーリの中盤を支えた後、04-05シーズンを最後に引退。現役時代からイタリアサッカー選手協会(AIC=プロサッカー選手の労働組合組織)の役員を務めるなど、サッカー界内部の政治に積極的にかかわって広く人望を集めてきた。選手など現場の利害を代表する形で、ロッシ特別コミッショナーの片腕に任命されたことで、弱冠30代半ばで代表監督選考のキャスティングボードを握るという巡り合わせになったわけだ。

 そのアルベルティーニが、カンナヴァーロ、ブッフォン、ガットゥーゾ、ピルロといったチーム内のオピニオンリーダーの意見も聞いた上で、最終的に強く推したのがドナドーニだった。周知の通り、アルベルティーニとドナドーニは、ミランで長年ともにプレーしてきた仲である。

 ワールドカップで、クリンスマン(ドイツ)、ファン・バステン(オランダ)という、現役を退いて間もない40歳前後の青年監督が結果を残し、今度はブラジル代表監督にもドゥンガが就任するなど、ドイツ大会をひとつの契機にして、代表監督というポストの位置づけには少なからず変化が起こり始めているという印象がある。十分な経験と実績を詰んだベテラン監督がキャリアの最後を飾る“上がり”のポストではなく、選手と同じ目線に立ってチームをまとめて行こうという若くて野心的な監督の活躍の場に変わり始めている、といえばいいだろうか。

 とはいえ、セリエAの監督としてわずか半シーズンの経験しかない若手をアズーリの指揮官に据えるというこの選択が、イタリアにとって大きな冒険であることに変わりはない。世界の頂点に立ったのはいいが、その直後にまた一から出直し、という印象すらある。

 というところで、残念ながら紙幅が尽きてしまったので、そのドナドーニ体制の船出と展望に関しては、引き続き次回に取り上げることにしたい。■

2)イタリア代表は斜陽に向かうか

 ラテン3国(イタリア、スペイン、ポルトガル)を除くほとんどの国で、新シーズンのリーグ戦が開幕したヨーロッパ。代表レベルでも、欧州選手権(スイス、オーストリア共催)に向けた予選が来週末からスタート、2年後の本大会に向けた新しいサイクルを迎えることになる。

 前回お伝えした通り、ワールドカップ優勝国のイタリア代表は、マルチェッロ・リッピ監督の勇退に伴って、43歳のロベルト・ドナドーニを後任に据え、新たなスタートを切った。
 選手時代のドナドーニは、80年代から90年代にかけてミランの黄金時代を支え、イタリア代表としても90年(3位)、94年(準優勝)と二度のワールドカップでレギュラーを張った、この時代を代表する攻撃的MFのひとりだった。だが監督としてはまだ実績らしい実績を残しておらず、その手腕は未知数といっていい。

 「リッピ監督の路線を継承する。大きくチームをいじることは考えていない。私の色を出して行くのは、チームを掌握し理解してからでも遅くはない」というのが、ドナドーニの就任第一声。ワールドカップで優勝したチームを引き継ぐことを考えれば、これはある意味で当然の姿勢だろう。

 しかし、実のところアズーリは、チームとしてのサイクルから見て非常にデリケートな局面にさしかかっている。ワールドカップを戦ったレギュラー陣の多くは、6年前のユーロ2000から主力を張ってきたベテラン。平均年齢は28歳を超えており、出場国中最も高い部類に属していた。2年後のユーロ2008開催時点で30歳の大台に乗らない選手は、ブッフォン、ガットゥーゾ、ピルロの3人のみ。凖レギュラーだったジラルディーノとデ・ロッシを入れてもたった5人に過ぎない。

 まさか、このままのメンツで2年間戦い、ユーロに臨むわけにはいかないだろう。つまり、ドナドーニには、何人かのベテランに引導を渡して世代交代を進めるという、決して簡単ではない仕事が求められているということだ。

 だが本当の問題は、これからのイタリアを担うべき「次の世代」に、優秀な人材が育っていないというところにある。

 デビュー戦となったクロアチアとの国際親善試合(8月16日)、ドナドーニは、まだヴァカンス明けで調整が遅れているワールドカップ組を一切招集せず、それ以外の選手の中から22人のメンバーを選ばなければならなかった。その顔ぶれが、上のリスト<文末につけました。写真にかぶせて下さい>である。

 いわば「B代表」ともいうべきこの招集メンバーには、本来ならばアズーリの次代を担う若手がずらっと顔を揃えていて然るべきところ。ところが現実は、ご覧の通り平均年齢27歳強、下位リーグからスターとして、セリエAの中小クラブでキャリアを詰んできた叩き上げの中堅・ベテランが大部分を占めることになった。

 もちろん、それが悪いと一概に決めつけることはできない。今回のワールドカップでも、グロッソ、マテラッツィといった叩き上げの猛者が、イタリアの優勝に大きな貢献を果たしている。彼らのような貴重な脇役は、どんなチームにとっても欠かせない存在である。

 しかし、アズーリでチームの中核を担ったブッフォン、ネスタ、カンナヴァーロ、ザンブロッタ、ピルロ、ガットゥーゾ、トッティ、デル・ピエーロといった選手たちは、20歳前後からすでに将来を約束され、20代前半ですでにA代表でプレーしていたエリートだったことも事実である。彼らはその時点ですでに、絶対的な素質・タレントという点で明らかに傑出した存在だった。そして、ピッチ上で決定的な違いを作り出し、チームを勝利に導くのは、やはり彼らワールドクラスのトッププレーヤーたちなのである。

 ところが、現在20代前半の世代を見ると、数年後には代表の主力間違いなしといえるタレントは、デ・ロッシ(ローマ/ワールドカップで肘打ち事件を起こした)とカッサーノ(レアル・マドリード/問題児ぶりには定評あり)、そしてジラルディーノくらい。それ以外にも「原石」は何人かいるが、まだセリエAで評価に値する実績を残すところまでは行っていないのが実情だ。20代半ばまでに、セリエAのビッグクラブで堂々とレギュラーを張っているくらいでないと、世界レベルで主役として活躍することは難しいのだが……。しかし、かといって世代交代を先送りすれば、数年後の大きな地盤沈下は避けられそうにない。

 ちなみにこのクロアチア戦は、内容的にはまあまあ互角だったものの、ディフェンスに綻びが出てミス絡みの失点を喫し、0-2であっけなく敗れることになった。ほとんど全員これが初めての顔合わせだったこと、相手がワールドカップ組を主体とするほぼフルメンバーに近いチームだったことなどを考えれば、この結果そのものは参考にすら値しないものだと言うことは可能だ。だが、この親善試合が、アズーリが将来に向けて抱える大きな問題を浮き彫りにしたことも、また確かなことである。

 報道によれば、一時は代表引退をほのめかしたトッティを含めて、ワールドカップ組は全員が、アズーリでのキャリアを続行することを望んでいると伝えられる。優勝の功労者にご退場願ってチームの世代交代を図るのがどれだけ困難かを示す過去の事例は、世界中枚挙にいとまがない。ドナドーニ監督は当面、ワールドカップ組をそのままピッチに送って、ユーロ予選を戦って行くことになるのだろう。アズーリがそのツケを、いつ、どのような形で払うことになるのか、今はまだわからない。

<イタリア代表・クロアチア戦(国際親善試合・8/16)招集メンバー>

GK
アメリア(リヴォルノ・24)、ローマ(モナコ/仏・32)
DF
ボネーラ(ミラン・25)、キエッリーニ(ユヴェントス・22)、ファルコーネ(サンプドリア・32 )、パスクアル(フィオレンティーナ・24)、テルリッツィ(サンプドリア・27)、ザウリ(ラツィオ・28)、C.ゼノーニ(サンプドリア・29)
MF
アンブロジーニ(ミラン・29)、G.デルヴェッキオ(サンプドリア・28)、ゴッビ(フィオレンティーナ・26)、リヴェラーニ(フィオレンティーナ・30)、パロンボ(サンプドリア・25)、セミオーリ(キエーヴォ・26)、モッローネ(リヴォルノ・28)
FW
カラッチョロ(パレルモ・25)、ディ・ミケーレ(パレルモ・30)、ディ・ナターレ(ウディネーゼ・29)、エスポージト(カリアリ・27)、ルカレッリ(リヴォルノ・31)、ロッキ(ラツィオ・29)


(2006年8月16日・23日/初出:『El Golazo』連載「カルチョおもてうら」)

Posted at 03:12 午前    

日 - 2月 8, 2009

カカ、新シーズン(06-07)への意気込みとカルチョの素晴らしさを語る(2006.09)


 アーカイヴ#106。気がついたらカレンダーは2009年に変わって1ヶ月以上も過ぎていますが、本アーカイヴの更新は終了したわけではありません。まだ残しておくべき原稿はたくさんあるので、引き続きアップしていきます。遅ればせながら、本年もよろしくご愛読のほどをお願いいたします。
 というわけで今回は、ドイツワールドカップ明けの2006年8月末にミラネッロで行った、カカへのインタビュー。この時からそうでしたが、カカは対マスコミのガードが非常に堅くて、最近はもう独占でインタビューを取るのはほとんど不可能になってしまいました。代理人兼マネジャーのボスコ・レイチ氏はご令息の商品価値を非常によく御存知なので、少なくともミランという枠の中では、コマーシャルオペレーション以外に何かをする可能性は皆無と言っていいのではないでしょうか。
 ちなみに、11歳のカカに気前よくポケットマネーを奮発した炯眼の持ち主は、古くは加藤久、最近では佐藤寿人などを育て、近年は育成のみならず芝生のグラウンド普及など、地域サッカー振興に向けて多方面でご活躍の塩釜FC代表・小幡忠義氏(宮城県サッカー協会会長)です。

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◆  ◆  ◆


「セリエAほど難しくてチャレンジングなリーグは他にないんだ」

 チェルシーの金満オーナー、ローマン・アブラモヴィッチは1億ユーロ(約150億円)という巨額の移籍金を提示した。レアル・マドリードの新会長ラモン・カルデロンは、会長選挙の公約にその名前を使い、就任後もあらゆる手を使って獲得しようと試みた。ヨーロッパ中のすべてのビッグクラブが、夢の獲得リストの一番上に彼の名前を記している。しかし彼はそんな誘惑には目もくれずにミランへの忠誠を誓い、第二の故郷とまで呼ぶミラノに腰を据え、セリエAを代表する絶対的な主役としてプラネット・フットボールのど真ん中で輝こうとしている。

 リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ。家族は愛情を込めて「リカルド」と、チームメイトは親しみを込めて「リッキー」と、そしてそれ以外の全ての人々は憧れと崇拝のまなざしで「カカ」と、彼のことを呼ぶ。

――ワールドカップは残念でした。イタリアに戻ってきて、新しいシーズンを迎えるわけですが、意気込みを聞かせて下さい。
「意気込みはいつも変わらないよ。毎日少しずつでも自分を高めて、ピッチに立ったらチームの勝利にできる限り貢献すること。ミランは、常に勝利を目指して戦う偉大なチームだから、今シーズンも、カンピオナートとチャンピオンズリーグで優勝することが目標だし、ぼくにとっても、ミランの一員としてそれを勝ち取ることが一番の目標になる」

――今シーズンのイタリアサッカーは、ちょっと特殊な状況に置かれています。代表はワールドカップで優勝したけれど、国内ではカルチョスキャンダルがあって、クラブからはスター選手が国外に流出したりしている。今の状況をどう見ていますか?
「僕は、イタリアサッカーは生まれ変わりの時を迎えていると思うんだ。スキャンダルは確かに大きな問題だったけれど、今まで僕たちプレーヤーが知らないところで行われていたことが明るみに出て、過ちを犯した人たちが罰せられるのは悪いことじゃないし、正しいことだからね。この機会に膿を出して出直すことで、セリエAはこれからも偉大なチーム、偉大な選手たちが戦う偉大なリーグであり続けることができる。今シーズンもこれまで通り、素晴らしいカンピオナートになると思うよ」

 と、いかにも優等生らしい模範解答を返してくれたカカだが、彼もカルチョスキャンダルの余波と無縁ではなかった。不正行為の“主犯格”としてセリエB降格処分を受けたユヴェントスが、国内外のビッグクラブの草刈り場になる中、ミランもまた、副審の判定に影響力を及ぼそうとしたかどでポイント剥奪処分を受けるなど、そのイメージに大きな傷をつけた。そこにつけこむように、“銀河系”を解体してカペッロ新監督の現実路線に方向転換し再建を目指すレアル・マドリードが、カカ獲得に動き出したからだ。

 とはいっても、そのやり方は、世界一といっていい輝かしい歴史と伝統を誇る名門にふさわしいものではなかった。『マルカ』紙、『AS』紙をはじめとする地元スペインのマスコミに、いかにも本人が移籍に乗り気であるかのような情報を流して揺さぶりをかけたのだ。当然ながら「カカ、レアル移籍濃厚」というスペインでの報道は、イタリアでも大きなニュースになった。

 だが、カカ本人はこうした周囲の騒音にもまったく動じなかった。「僕も、僕の家族もミラノでの生活にすごく満足しているし、だからミランとの契約も2011年まで更新したんだ。レアルが僕を欲しがってくれるのは嬉しいけれど、もし僕がレアルとの契約にサインすることがあるとすれば、それはミランがそれを望んだ時だけだよ。誤解してほしくないのは、僕は何らかの決断を促そうとしているわけではまったくないということ。それは、レアルが偉大なクラブだというのと同じくらい明白なことだよ」。これは7月半ば、『AS』紙に掲載されたインタビューでのコメントだ。もちろんその気持ちは今もまったく変わっていない。

――夏の間は移籍の噂も流れましたが。
「あれは単なる根も葉もない噂だよ。僕はミラノから動くつもりはまったくないんだから。6月に契約を延長したばかりだし、ミランにも、ミラノという都市にもとても愛着があるからね」

――ミランへの愛着はよくわかります。以前から、このクラブの歴史に名前を残したい、って言っていますよね。でも、ミランも含めて、イタリアのサッカーは、あなたが生まれ育ったブラジルのサッカーとはかなり違う、戦術重視でどっちかというと退屈なサッカーですよね。ワールドカップでセレソンにどっぷりつかって、ああいう楽しいサッカーが懐かしくなりませんでしたか。
「セレソンでは、真面目に練習している時ですら、フェスタみたいに陽気な雰囲気があるし、確かに居心地はすごくいいよ。今回のワールドカップみたいに結果が出ないと、それをあれこれあげつらって叩こうとする人たちが出てくるけど、2002年の時にはそれで優勝したわけだしね」

――でもイタリアのサッカーにはまた別の魅力や良さがあると。
「もちろんそうさ。イタリアのサッカーは、ブラジルのそれと比べるとずっとシリアスで緻密だよね。こんなに難しいサッカーは他にはないんだ。イタリアのディフェンスは、下位のチームでもすごくよく組織されているし、そう簡単にシュートを打たせてくれない。それを打ち破るためには、技術も戦術もフィジカルも判断力も、すべてを磨いて高めていかなければならないよね。そういう困難にチャレンジして、それを乗り越えるのが僕は好きなんだ。ブラジルサッカーとイタリアサッカーは、確かに考え方もスタイルも違うけど、それぞれにいいところがあるし、僕にとってはどっちも素晴らしいサッカーなんだ」

 ミランでデビューした当時から、カカは「ヨーロッパのメンタリティとブラジルのテクニックを両立させたプレーヤー」と評されてきた。“フッチボル・アレグレ”(陽気なサッカー)と呼ばれるブラジルサッカーと、戦術主義的で規律重視のイタリアサッカーの間を、冷静なバランス感覚で自在に行き来しながら、より高い次元でそれを統合しようと目指す。そのプレースタイルには、ますます磨きがかかってきた。

 昨シーズン、ドリブルで敵を3人抜いてGKと1対1になった後、トッティばりのループシュートを試みて失敗、みごとGKの腕の中にボールを送り届けてゴールをふいにし、アンチェロッティ監督からこっぴどく叱責されたことがある。「目の前の敵を抜くのはいい。でもゴールが見えたらできる限りシンプルに、確実にプレーしろ」。そう釘を刺されたカカは、しかし試合後、毅然としてこう反論したものだった。「ファンタジアやスペクタクルがなかったらサッカーじゃない。僕たちブラジル人はそういうカルチャーの下で育ったし、そういう血が流れているんです。あれが決まっていたらとっても素晴らしいゴールでしたよ。僕はこれからもチャンスがあれば、そういう美しいゴールにチャレンジし続けるつもりです」。あの顔で、見かけよりもずっと気が強くて頑固者なのだ。

――ミラノへの愛着についても少し聞かせて下さい。
「うん。僕はこの町に惚れ込んでいるんだ。僕が育ったサンパウロと比べると小さいけれど、感じはよく似ているしね。映画とか劇場とか文化的にもとても豊かで、その点ではミラノの方がずっと上。それに、美味しいレストランもたくさんある。そしてビジネスの町でもある。僕にはすごくぴったり来る町なんだよね」

――どこかで、あなたがミラノの運河について勉強しているという話を読んだんですが、本当ですか?
「(笑)。あれは、ミラノの歴史に興味があってちょっと調べていた時に、記者の人にその話をしたら、話が広まっちゃって。昔のミラノでは運河は重要な交通手段のひとつだったって聞いたから、それについてちょっと質問しただけなんだけどね。自分が住んでる町の歴史には興味があるから、いろいろ調べたり読んだりしてるんだ」

――いつもそうやって何か勉強しているわけですか。
「そう。いつもね。勉強するのが好きなんだ。いろんなことを学ぶのは楽しいことだから」
 こういう話をする時の表情は、サッカー選手というよりも、学業優秀な大学生みたいなそれである。この日は違ったが、コンタクトレンズを外して眼鏡をかけていたりすると、本当に真面目なガリ勉野郎のように見える。

――もしサッカー選手になってなかったら、どんな仕事をしていたと思いますか。
「エンジニアになりたかったんだ。お父さんがそうだったから。子供の頃は、お父さんを見て憧れるものでしょ」

――そうですね。でもあなたはその若さで世界でも指折りのフットボーラーになって、今では世界中の人たちのアイドルです。今日ミラネッロに入ってくる時も、入り待ちのファンの熱狂はすごかった。こういう現実とどのようにつきあっているのでしょう。
「僕は自分の価値観を持っているし、それに対していつも忠実でありたいと思っているんだ。家族や愛情、神や信仰、そういう自分を支えてくれる価値を、正直に信じ続けることが大事だと思うんだ。自分が大きな成功を収めていること、社会的な存在としての自分がどんなものかは、よくわかっているつもりだよ。サッカー選手として成功したことは、神が与えてくれた能力の賜物だと思うけど、それとは関係なく、僕はごく普通の若者だっていうことを、人々に伝えたいし、それをわかってもらいたいと思ってるよ」

――あなたは今でも、11歳の時にサンパウロのジュニアチームの一員として日本に行った時に、賞金としてもらった5000円札を大事にとってあるそうですが、本当ですか?
「本当だよ。大事な思い出だからね。日本での試合でいくつかゴールを決めて、そのご褒美にもらったんだ。サッカーで初めてもらったお金だったから嬉しくて」

――実は、あなたにその5000円を渡した人はぼくの知り合いだったということを、たまたま最近知ったんですよ。宮城県の鳴子というところで開催した大会で、あなたのプレーがあんまり特別だったから、最優秀選手賞なんてなかったんだけど、どうしても何かをあげたいと思って、それで財布をさがしたらたまたま5000円札が1枚入っていたんだそうです。これを渡すと手持ちのお金が全然なくなっちゃうけど、でもいいや、と思って奮発したそうですよ。
「よくわからないけど、今のお金で100ユーロくらいの価値なのかな。もちろん金額なんてどうでもいいんだ。僕にとってと同じように、その人にとっても特別なものだった。大事なのはその思い出だからね。これからも一生ずっと、大事に持っているつもりだよ」

 そんなピュアな好青年も、一旦ピッチに立つと印象を一変させる。185cm、78kgという均整のとれた肉体からはデビュー当時の線の細さが消え、トップアスリートだけが持つ風格が漂うようになった。

 ワールドカップ後、束の間のヴァカンスを経て迎えた今シーズン。ミランの一員として、8月に行われたチャンピオンズリーグ予備予選突破に貢献したカカは、セリエA開幕を前にした9月3日、今度はセレソンの一員としてロンドンで行われたブラジル対アルゼンチンの親善試合に出場、世界中を虜にするようなゴールを決めてみせた。

 アルゼンチン陣内半ばで、メッシがトラップミスしたボールを奪うと、ドリブルでスタートを切り、一気に加速してハーフウェイラインを越える。慌てたメッシが必死で背後から追いすがるが、カカとの差は縮まるどころかむしろ開いていくばかりだ。スピードに関しては折り紙付きのメッシですら追いつけない強烈な加速でそのまま敵陣深くまで70mを走り切り、DFふたりとGKをフェイントすら使わずに軽々かわすと、対角線に緩やかなシュートを流し込んだ。パワー、スピード、持久力、テクニック、大胆さと冷静さ、カカの持つすべての資質が凝縮されたようなスーパーゴールだった。
 そして今、ヨーロッパのしんがりを切って開幕したセリエAでも、絶対的な主役としての活躍が期待されている。

――今シーズンのカンピオナートはどうなるでしょう?
「今年も困難な戦いになると思うよ。セリエAほど難しいリーグは他にないからね。どのチームも強い。他の国のリーグみたいに、2つか3つのチームだけが突出しているわけじゃないからね。確かにユーヴェはセリエBに降格したけど、それ以外のチームはこれまでと変わらないし、むしろ強くなっている。インテル、ローマ、フィオレンティーナ、ラツィオ……。いくつかのチームは勝ち点を削られてるけど、むしろそのせいで必死になるだろうね。でも、これまでもそうだったように、僕たちが常にベストのパフォーマンスを見せれば、どんなチームとも互角以上に戦えるはずさ。-8ポイントというペナルティのことは忘れて、ひとつひとつの試合を全力で戦って行けば、勝利はみえてくると信じているよ」■

(2006年9月5日/初出:『STARsoccer』)

Posted at 11:48 午前    

土 - 12月 13, 2008

イタリア・クラブ探訪10:フロレンティア・ヴィオラ(2002.09)


 アーカイヴ#105。2000年から2003年にかけて某WSD誌に連載していた『イタリア・クラブ探訪』。今回は2002年9月に取材したフロレンティア・ヴィオラの回をお送りします。もしかすると、そんなクラブは聞いたことがない、という方もいるかもしれません。実際、当時このクラブは発足したばかりで、セリエC2(4部)で戦っていました。でも今はセリエA。その種明かしは本文でどうぞ。

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◆  ◆  ◆


 ACフィオレンティーナは、スクデット2回、コッパ・イタリア6回、欧州カップウィナーズ・カップ1回の優勝歴を誇り、1926年の創立以来わずか2シーズンを除いて常にセリエAの舞台で戦い続けてきた、イタリア有数の名門クラブだった。

 「だった」と過去形で書かなければならないのは、昨シーズンのセリエAで最下位同然の17位に終わりB降格を喫したこのクラブが、2002年8月1日をもって破産・消滅し、76年にわたる輝かしい歴史に突然の終止符を打ってしまったからだ。理由は、オーナー会長だったヴィットリオ・チェッキ・ゴーリが経営する企業グループの財政破綻。プロクラブとして存続するための基準すら満たせない巨額の負債を抱え、セリエBへの登録保証金も捻出できなくなっていた。つい2シーズン前には「ビッグ7」の一角を占めてスクデットを争い、チャンピオンズ・リーグを戦っていたことを考えれば、にわかには信じられない結末だった。

 その破産劇から1ヶ月半が過ぎた9月15日、ACフィオレンティーナのホームだったフィレンツェのスタディオ・アルテミオ・フランキでは、昨シーズンまでのセリエAとは打って変わって、セリエC2(4部)の試合が開催されていた。一応プロのはしくれとはいえ、1試合平均の観客数は2000人にも満たないというマイナーなリーグである。

 カードは、フロレンティア・ヴィオラ対カステル・ディ・サングロ。名前を聞いたこともないチーム同士の対戦だけに、観客席はガラガラ…と思いきや、スタジアムには2万5000人を超える観衆が詰めかけていた。それどころか、それぞれフィエーゾレ、フェロヴィエと呼ばれるふたつのゴール裏は、昨シーズンまでと同様、フィオレンティーナのウルトラスで満員である。

 フィオレンティーナ?そう、この「フロレンティア・ヴィオラ」こそ、ACフィオレンティーナに替わって、都市フィレンツェを代表するプロサッカークラブとして新たに設立され、プロ最下層のセリエC2から再スタートを切ったばかりのチームなのである。

 法的に見れば、旧ACフィオレンティーナとは何のつながりもない全く別の組織であり、そもそも「フィオレンティーナ」という名前ですらないのだが、フィレンツェの人々はもちろん、マスコミまでもが、このチームを「フロレンティア」ではなく「フィオレンティーナ」と呼び続けている。どうやらフィレンツェの人々は、このチームを1926年から続く長い歴史と伝統をそのまま受け継ぐ正当な存在、要するに「フィオレンティーナ」以外の何者でもないと考えているようなのである。

 旧ACフィオレンティーナの倒産からこのホームでのデビュー戦まで、わずか40日あまりの間に何がフィレンツェで起こったのか。そしてフロレンティア・ヴィオラ、いや新生フィオレンティーナは、これからどこに向かおうとしているのか。それを明らかにするため、フィレンツェに足を運んだ。
 
 中部イタリアの美しい丘陵地帯に位置するヨーロッパ有数の芸術都市・フィレンツェの起源は古代ローマ時代、紀元前3世紀にまで遡る。当時この地に開かれ、現在まで栄える“花の都”の元になった都市の名こそが「フロレンティア」だった。その千数百年後、中世にはイタリア有数の自治都市として発展し、14-15世紀になってルネッサンスの中心地として栄華を極めたことは、どんな歴史の教科書にも書かれているとおりである。

 まさにその当時、つまり今から500年以上前に建設された荘厳なフィレンツェ市庁舎“パラッツォ・ヴェッキオ”の2階に、フィレンツェ市のスポーツ行政責任者にしてフロレンティア・ヴィオラ誕生の立役者のひとり、エウジェニオ・ジャーニ評議員を訪ねた。

 ACフィオレンティーナの破産・消滅が濃厚になった7月31日、フィレンツェ市はイタリアサッカー協会のカッラーロ会長に、もしそうなった場合、都市を代表するチームをセリエC(3~4部リーグ)に登録できるよう求める嘆願書を送っている。ジャーニは、その理由を次のように語る。

「サッカー協会の規定では、クラブが破産・消滅した場合、その後を受けたチームはアマチュアリーグ(5部または6部)から再出発しなければならないことになっています。しかし、フィレンツェが都市を代表するプロチームを持たないという事態は、この都市とフィオレンティーナがカルチョの歴史に残してきた足跡とその重要性を考えると、何としても避けなければなりませんでした」

 この嘆願書は翌日開かれたサッカー協会の幹部会で検討され、「チームが設立されればセリエC登録を受け入れることを特例として認める」という結論に至る。最悪の事態だけは避けることができたわけだが、問題は、まだその受け皿となる会社さえ存在していないことだった。

「とにかく一刻も早く会社を設立する必要がありました。フィレンツェ市の代表として赴いていたローマのサッカー協会本部で、私がその結論を聞いたのが8月1日の午後1時半。すぐにレオナルド・ドメニチ市長に連絡を取って、午後4時半にここフィレンツェ市庁舎に公証人を呼び、新しいチームの母体となる会社を立ち上げたのです。私と市長のふたりが出資者となって、設立に必要な最小限の資本金を提供しました」

 市長とスポーツ行政責任者、重要な公職にあるふたりが自らの個人的な資金を投じて設立した新会社の名称は“フィオレンティーナ1926フロレンティア”。破産・消滅したACフィオレンティーナの歴史と伝統を守り、フィレンツェ市民を代表してこれを引き継ぐという意志を強く打ち出した命名だった。

 母体となる会社が設立されたとはいえ、もちろん単なる私企業であるプロサッカークラブの運営に市の公的資金を投入するわけにはいかない。2人の設立者はすぐにマスコミを通じて、この会社を買い取って新しいクラブのオーナーとなってくれるパトロンを募集すると表明した。もちろん、少しでも早くこのクラブを「都市・フィレンツェにふさわしい、そしてサポーターの情熱に見合ったレベル」、すなわちセリエAに連れ戻すための意志と資金力を持っていることが条件である。

 それからわずか2日後の8月3日、電光石火といっていい展開で決まった新オーナーは、世界中のセレブリティご用達の高級靴・革製品ブランド「JPトッズ」(年商約3億2000万ユーロ=380億円)を経営する実業家、ディエゴ・デッラ・ヴァッレだった。カルチョの世界では例外といっていい高級ファッションブランドの経営者をオーナーに選んだ理由を、ジャーニはこう説明する。

「彼は、ここトスカーナ州と深いつながりを持つお隣りマルケ州の出身であり、また事業を展開しているのもフィレンツェと非常に縁の深いファッション分野です。彼との間にはある種の紳士協定が成立しました。彼は彼のビジネスに、フィレンツェという都市のプレステージ、世界で通用するイメージを利用することができる。フィレンツェはそのかわり、彼の資金力と経営力の提供を受けて、都市を代表するサッカーチームを持ち続けることができる。利害がはっきりと一致しているだけに、この結婚は非常に幸せな結婚だといえるでしょう」

 デッラ・ヴァッレ以外で最も有力だった候補は、今年セリエAに昇格したコモのオーナーであり、イタリア最大手の玩具製造・販売会社「ジョキ・プレツィオージ」を経営するエンリコ・プレツィオージだった。しかし、複数のクラブを持つということになると、何年かするうちにカテゴリーが重なって双方の利害が対立する可能性もある。資金力ではむしろ上回るプレツィオージが選ばれなかったのは、それがフィレンツェにとって望ましくないという判断があったからだという。

 またジャーニによれば、地元フィレンツェからの立候補はまったくなかったともいう。フィレンツェの基幹産業は商業、そしてファッション関連をはじめとする中小規模の手工業であり、ここまで大きくなったプロサッカーというビジネスを支えられる規模の大企業は、残念ながら存在しないのだ。

 ここでひとつ付け加えれば、当初の“フィオレンティーナ1926フロレンティア”という名称は、デッラ・ヴァッレへの経営権の譲渡と時を同じくして、“フロレンティア・ヴィオラ”に変更することを余儀なくされている。これは、破産した旧ACフィオレンティーナの債権者との間に、名称の使用権をめぐる係争が起こるのを避けるため。したがって、名称使用権の問題さえ解決すれば、このクラブは改めて堂々と“フィオレンティーナ”を名乗ることになるはずである。
  
 さて、こうして「フロレンティア」のオーナーとなったデッラ・ヴァッレは、しかし自ら会長に就任することはせず、クラブ経営に専念する執行権を持った会長として、「JPトッズ」の有能な幹部を送り込んできた。

 その新会長、ジーノ・サリカにインタビューしたのは、ホームスタジアムであるアルテミオ・フランキのメインスタンド下、クラブが仮の事務所として使用している、決して広いとはいえない一室だった。明晰でインテリジェンスあふれる話しぶりは、その語彙も含めて、カルチョの世界というよりはビジネス世界の住人のそれである。

「このクラブが掲げる最大の目標は、1年でも早くこのチームをフィレンツェにふわさしいレベル、つまりセリエAまで引き上げることです。しかし、C2(4部)からスタートすると、毎年昇格を繰り返したとしてもまる3年間はかかるわけですから、まずは1年づつステップ・バイ・ステップでチームを強化していくこと、そのシーズンを勝てるチームを作っていくことの積み重ねです。
 ただ、それと同時に、クラブとしてのポジティブなイメージ、フィレンツェという都市にふさわしいイメージを築くことも、非常に重要だと考えています。ですから、フェアプレー、スポーツマンシップは非常に重要だと考えています。勝つためならあらゆる手段に訴えることも辞さないという論理は、我々は受け入れません。相手よりもいいサッカーをして勝つことを大切にしたいのです。これが、私たちの重んじる価値観であり、このフロレンティアのポリシーです」

 そうである以上、いかにセリエAへの早期昇格を目指すチームとはいえ、金に飽かせて上のレベルの選手ばかりを買い集め、セリエCのメルカートに混乱を起こすようなことはあってはならない。事実、今シーズンのフロレンティアの年間予算は650万ユーロ(約7.5億円)と、セリエC2ではトップレベルだが破格とはいえない、まずまず妥当な規模に押さえられている。ちなみに、そのうち約70%を占めているのは選手やスタッフの人件費である。

 一方、収入の見込みは500万ユーロ(約5.9億円)前後。初年度は150万ユーロ(約1.8億円)の赤字になるわけだが、「新会社の一年目であることを考えれば、この程度の赤字は、先行投資として許容範囲に収まる数字でしょう」とサリカ会長は語る。最初の数年間は、すぐに上に行かなければならないこともあって、ある程度の投資は避けられないということだろう。

「これだけのサポーターを抱えたチームは、C2にはもちろんC1にも存在しません。イタリア全体を見ても、ユーヴェ、ミラノの2チーム、ローマの2チーム、ナポリに次ぐサポーター数を誇っているわけだし、今年の年間予約チケットもすでに1万5000枚を超えています。できるだけ早くBに上がるのは、フィレンツェに対する義務と言わなければならないでしょう。そのためにも、今年はまずこのC2で優勝し、次のステップに進んでほしい。もちろん、それにふさわしい試合内容を伴ってです」

 ちなみに、プロ4部リーグにあたるセリエC2は、それぞれ18チームづつからなる、A(北部)、B(中部)、C(南部)の3グループに分かれており、計54チームから構成されている。フロレンティアが所属するのはグループB。セリエC1(3部リーグ・こちらは2グループ構成)に昇格するためには、グループで1位になるか、2~5位のチームで争われるプレーオフを勝ち抜くかしなければならない。プレーオフは一発勝負の水モノゆえ、確実に昇格を果たすためには、優勝を飾る以外の手段はないのである。
 
 優勝を義務づけられたチーム作りは、どんなカテゴリーにおいても簡単な仕事ではない。オーナーのデッラ・ヴァッレからこの大きな宿題を与えられたのは、チーム部門の全権を持つテクニカル・ディレクター(TD)に就任し、サリカ会長の片腕となったジョヴァンニ・ガッリだった。フィオレンティーナのユースセクションで育ち、19歳から9シーズンにわたってヴィオラのゴールを守った後、ミラン、ナポリでも活躍、イタリア代表でも30試合に出場した、80年代イタリアを代表する名GKである。

 ガッリがTDに就任したのは8月8日。しかしこの時フロレンティアはまだ、監督はもちろん選手のひとりすら所有していない、ペーパーカンパニー同様の会社でしかなかった。だが、チーム登録の期限までに残された時間はわずか10日あまり。8月19日には、コッパ・イタリアの初戦がすでに迫っていた。プロリーグに登録できるチームの体裁を整えることすら困難なこの条件下で「C2で勝てるチーム」を作り上げなければならなかったのだから、その苦労は想像するにあまりある。

 まず決めなければならないのは監督だった。ガッリは当初、セリエBを戦う旧フィオレンティーナで指揮を執るはずだったエウジェニオ・ファシェッティ、そして昨シーズンにBでナポリを率いたルイジ・デ・カーニオにアプローチしたが、合意には至らなかった。その後に残ったのが、ベテランのレンツォ・ウリヴィエーリ(昨シーズンはパルマを指揮)か、若手のピエトロ・ヴィエルコウッド(2年前に40歳で現役を引退し、監督としてのキャリアを始めたばかり)か、という選択だった。

「最終的に私たちが選んだのは、ゼロからの再出発なのだから、それにふさわしいフレッシュな監督を選ぶ、という方向でした。ピエトロは、非常に真面目で真摯な人間であるだけでなく、監督としても非常に研究熱心で能力が高く、強い成功への意欲を持っています。それに私たちはフィオレンティーナで一緒にプレーした経験があり、個人的にもどんな人物かよく知っていました。確かに、監督としての経験は浅いですが、それはマイナスではありません。私たちはみんな、先入観や固定観念に囚われず、新しいフィオレンティーナを創っていかなければならないからです」

 スタジアム内のオフィスでこう説明してくれたガッリの口調は、冷静沈着で鳴らした現役時代のプレースタイルを思わせる落ち着いたものだった。

 ヴィエルコウッドの就任が決まったのが8月12日。もはやチームづくりには1週間の猶予しか残されていなかった。「とにかく大変な量の仕事をこなさなければなりませんでした。毎日、片時も電話を手から放さず、選手やクラブに連絡を取り、獲得交渉を続けましたよ」とガッリは笑って振り返る。

「チーム作りのコンセプトははっきりしていました。まさにC2で勝てるチームを作るということです。これは簡単ではありません。C2というのは、技術レベルが低い分、よりフィジカルの強さと運動量が求められるカテゴリーです。したがって、それに合ったキャラクターを持った選手が必要なのです。しかし、それではライバルに差をつけられない。ですから、C2を戦うために必要なフィジカル能力に加えて、上のカテゴリーでも通用するテクニックや経験を持っている選手を、チームの核として何人か獲得することが不可欠でした」

 そうして集められたのが、クラウディオ・ボノーミ(MF・元トリノ、サンプドリア)、ラファエレ・ロンゴ(MF・元パルマ、ナポリ)、ロベルト・リーパ(DF・元ペルージャ、バーリ)、アンドレア・イヴァン(GK・元サレルニターナ)といった、セリエAでのプレー経験をもつ強者たちである。

「ぜひ言っておきたいのは、私が声をかけた選手全員が、最初に連絡して『フィオレンティーナに来る気はないか?』と訪ねた時点ですぐに、上のリーグでプレーしているにもかかわらず、『SI'』(イエス)と返事してくれたということです」

 その大きな理由のひとつは、昨シーズン、ACフィオレンティーナのキャプテンとして不屈の戦いを見せた大ベテラン、アンジェロ・ディ・リーヴィオが、いち早くフロレンティアへの参加を表明していたことだろう。ガッリは語る。

「ディ・リーヴィオにとってこの選択は、プロフェッショナルとしてというよりも、ひとりの人間としての人生の選択だったのだと思います。彼はフィレンツェに家を買うほど、この町に愛着を感じていましたし、それは彼の家族も同じでした。それに、フィレンツェにこれだけ愛着を持ち、フィオレンティーナを再びセリエAに連れ戻すという仕事にキャリアの最後を捧げるという選択は、引退後の人生を考えても、経済的なものを超えた大きな満足を彼にもたらすはずです。彼には、そしてボノーミ、イヴァン、ロンゴといった、上のカテゴリーのプレーヤーたちには、ピッチの上でだけでなくロッカールーム、つまりグループの中でも重要で決定的な役割、つまりリーダーとして勝利のメンタリティをチームに植え付けてくれることを期待しています」

 こうして、苦労の末に短い時間で作り上げられた、しかしセリエC2の中ではトップレベルの戦力を揃えた「フロレンティア・ヴィオラ」は、やっと9月のシーズン開幕を迎えることになった。アウェーで戦った初戦は、同じトスカーナ州の田舎町サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのチーム、サンジョヴァンネーゼ相手に引き分け。そして迎えたのが、冒頭で取り上げた9月15日のホームでのデビュー戦だった。

 あえて上から下まで白で統一したユニフォームには、しかしこのクラブの隠れたアイデンティティを示すように紫の縁取りが入っている。その左胸には、1293年に市民による自治を確立して以来700年以上にわたるフィレンツェの市章である赤い百合の紋章。ACフィオレンティーナ時代は、市章を元にデザインされた独自の図案だったが、現在はクラブと都市のより深い結びつきを示唆するかのように、市の紋章そのものが使われている。

 胸のメインスポンサーは、地元フィレンツェの保険会社「ラ・フォンディアリア」。「もっといいオファーもありましたが、フィレンツェとの結びつきを第一に考え、地元の企業を選びました」とサリカ会長は語る。

 実はこのユニフォームは、間に合わせの仮バージョンである。とはいえ、この試合のつい数日前にテクニカル・スポンサーに決まったプーマ製の正式バージョンも、デザインは原則として現在のものが踏襲されるようだ。「フィオレンティーナ」の名前とともに「ヴィオラ(紫)」のユニフォームが戻ってくるのは、まだもう少し先のことのようである。

 さて、肝心の試合の方は、前半1点を先制したフロレンティアが、後半開始早々に一度は追いつかれたものの、最終的には5-1という圧倒的な大差で勝利を飾り、見事にシーズン初勝利をものにした。フィレンツェの人々にとっては、昨年の12月16日にフィオレンティーナが1-0でブレシアを下して以来、9ヶ月ぶりにフランキで祝う勝利だった。

 ジョヴァンニ・ガッリはこう語る。
「これをスタートに、1年でも早くセリエAの舞台をフィレンツェに取り戻したい。C2、C1、B、最低でも3年はかかりますし、上に行けば行くほど、戦いは厳しいものになっていくでしょう。1度や2度、躓くこともあると思います。しかし、長くとも5年以内にはセリエAに返り咲きたい」。

 フィレンツェとフロレンティア、いや新生フィオレンティーナの長い戦いは、今やっと始まったばかりである。■

(2002年9月12日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)
 

Posted at 02:36 午前    

火 - 12月 2, 2008

インタビュー:2001年のアレッサンドロ・デル・ピエーロ(2001.10)


 アーカイヴ#104。34歳を迎えた今シーズンはますます意気盛ん、というよりも長いキャリアでも指折りのシーズンを送っているアレッサンドロ・デル・ピエーロ(ユヴェントス)。最近はすっかりご無沙汰していますが、2001年から2003年にかけて、3度に渡って長いインタビューをする機会を得たことがありました。ちょうど27歳から29歳という、本来ならばキャリアのピークを迎えるべき時期です。これはその1回目。諸事情あってこの時期はピークとは言い難かったわけですが、それも今や過去の話。30代も半ばにさしかかったキャリア最後の時期を、これだけ充実した形で迎えているというだけでも、これはもうご同慶の至り以外の何物でもありません。
 せっかくなので、イントロ代わりに、インタビューの10ヶ月ほど前に『ストライカー』誌に書いた短いストーリーもつけておきます。

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◆  ◆  ◆


◆イントロ:デル・ピエーロ、復活への一里塚

 半月板損傷、外側靭帯裂傷、後側十字靭帯裂傷、さらに大腿二頭筋と膝窩腱の接点の損傷。1998年11月8日、ウディネーゼ戦で相手DFと交錯したデル・ピエーロが左膝に負った怪我の内容である。太もも(大腿骨)とすね(頚骨、腓骨)を結ぶ関節である膝の「部品」のうち、無事だったのは前側の十字靭帯だけに過ぎないといえば、どれだけ深刻な怪我だったかが伝わるだろうか。

 それから2年以上が過ぎた今も、デル・ピエーロは、かつての自分、正確にいえば、自己最多の21ゴールを挙げた97-98シーズン当時の自分を取り戻そうともがき続けている。

 長いリハビリを終えて復帰した昨シーズン、彼のプレーにかつての閃きとキレはとうとう戻らなかった。相手を翻弄するはずのドリブルは簡単に阻まれ、何度シュートを打っても、枠を外すかGKに阻まれるかのどちらか。復活を期して望んだ欧州選手権でも、決勝戦で、2-0で試合を決める絶好のチャンス(GKとの1対1)を2度外し、フランスの逆転優勝をお膳立てしてしまう。

 医学的には100%完治して久しい。デル・ピエーロを“天才”と“並みの一流選手”との境界線のこちら側にとどめているのは、頭の中のイメージと身体の動きの間にある微妙なズレと、そこから来るひとかけらの不安だけだろう。あとはほんの小さなきっかけさえあれば…。

 今シーズンも、開幕戦でこそ、左45度からGKを巻いてファーポスト際に飛び込む美しい決勝ゴールを決めたものの、その後はぱっとしない内容の試合が続く。レギュラー落ちに続いて、故障で1ヶ月半の戦線離脱。やっと復帰した途端に、最愛の父の死という不幸にまで襲われた。

 だがそのわずか数日後、バーリ戦に途中出場すると、ふっ切れたように生き生きとしたプレーを見せる。左サイドからドリブルで縦に深く持ち込むと、角度のないところから柔らかなチップキック。ふわっと浮き上がったボールは、ゆっくりと弾んでゴールネットを揺らした。

 ふたつの拳を握りしめ、泣き叫ぶように喜びを爆発させるデル・ピエーロ。この雄叫びが、真の復活のプロローグとなることを祈りたいものだ。
(2001年2月26日/初出:『ストライカー』)

◆インタビュー:デル・ピエーロ「死と復活」

 2001年9月28日金曜日、トリノ。秋晴れの暖かい昼下がり。デル・ピエーロは、インタビューが行われた彼のマネジメント・オフィスに、500mほど離れた自宅から、なんとヴェスパに乗ってやって来た。街中の移動はこれが一番なのだそうだ。明るいミーティングルームの椅子に腰を落ち着け、リラックスしたところで、対話を始める。
 
―このインタビューでは、あなたがあの怪我とその後の苦境から、どうやってここまで戻ってきたか、それを聞ければと思っています。
「それをひとことでいうと、毎年毎年、より多くの鍛錬を積み重ねることによって、ということになるかな。いずれにせよ、復帰してからこっち、コンディション的にはまったく問題ありませんでした。膝は100%元に戻っていましたからね。でも、膝を新しく作り直したようなものだから、すぐには元のようにはプレーできない。一度壊れた車のエンジンを修理して、すぐに全開にして時速300kmで走ることはできないでしょ。まず慣らし運転をして、問題がないかどうかチェックして、徐々に回転を上げていく。ぼくにも、それと同じプロセスが必要だったんです」

―具体的にはどんな?
「怪我が完治して復帰するまでは9ヶ月でしたが、プレーが完調に戻るまでには、もっと長い期間が必要でした。身体全体の調整というか微妙なバランスをもう一度取り直さなければならない。4ヶ月間も松葉杖で過ごしたことで、その後、自分としては普通にしているだけでも、身体の各部分や筋肉にかかる負荷が以前とは違っていて、それが全体のバランスを崩して、腰とか足の付け根とかいった特定の場所に負担をかけることもあるんです。そうなって新たな故障に見舞われないよう、いつもチェックしながら、少しづつ積み重ねていって、もうだいぶ前から、どんな種類の負荷をかけても大丈夫になりました」

―ということは、以前と同じように、自分の身体や動きに何の違和感も感じることなくプレーできるようになったということですよね?
「そうです。それはもうだいぶ前からそうですよ。でも今はもっと良くなっている。以前も、自分ではもう大丈夫だと思っていたけど、今はそれよりもさらに好調ですから」

―今シーズンは出足もすごく良かったし。
「そうですね。出足で結果が出ると、回りの雰囲気もよくなるからそれもプラスに働くし。回りの反応はすごく重要ですからね」

 結果が出なければすぐに議論や批判の的になるのがカルチョの世界だ。ユヴェントスの、しかもデル・ピエーロほどの選手になれば、毎日その一挙手一投足、さらには言動まで、すべてが注目の的になっているといっていい。勝っている間は褒めそやされ持ち上げられるが、負け始めるとすぐに叩き落とされつつき回される。そんな環境の中で、彼はどんなリアリティを生きてきたのだろうか?

「ぼくはサッカーが好きだからサッカーをはじめたし、好きだから今も続けている。これがぼくを動かしている一番根本にあるものです。それはずっと変わらない。サッカー選手という職業には、とくにイタリアではすごく大きなストレスが伴うし、単に職業だからと割り切ってやるだけではとても無理なんじゃないかと思います。サッカーに対する情熱があるから、ストレスと戦いそれに打ち勝っていこうという強い力が湧いてくるんです。
 もちろん、マスコミとか、試合に勝った負けたの喜びや辛さとか、サッカーの周囲にはいろいろな物事が存在していることも事実です。でも、一旦ピッチに立ったらそこにいるのはぼくたちと相手だけだし、そこにあるのは純粋なコンペティション、競争です。それは毎日の練習でも同じことです。ちょっとしたミニゲームをやるときだって、だれも勝負に負けたくはない。勝負というシンプルなものにすべてが集約されてしまう。それがぼくたちにとってのサッカーであり、それに情熱を感じるからこそ、それを仕事にしている。8年前と比べれば、ぼくが考えていることは変わったし、背負っている責任もずっと重くなった。それは確かです。でも、自分にとってサッカーがなによりもまず情熱の対象であって、昔も今もそれがすべての原点ですよ」

―でも、年を経るに連れて責任もプレッシャーも重くなってくるし、いい年もあれば悪い年もあって、最初の何年かのように、順風満帆にはいかなかったですよね。
「それはチームの成績にも左右されますからね。最初の5年間は、毎年何かタイトルを獲ってきた。その後3年間、何のタイトルも獲れなかったら、叩かれるのはある意味で当然ですよね。だからみんな、もちろん毎年そうなんだけど今年は特に、何としても勝ちたいという意欲であふれていますよ。いずれにせよ、外部の意見を左右するのは結果です。勝ったチーム、ゴールを決めた選手は常にそうじゃないチームや選手より高く評価される。本当は必ずしもそうじゃないんですが、ピッチの上で出る結果は、それを受け入れる以外にありません」

―あなたのキャリアを振り返ると、98年5月21日のチャンピオンズ・リーグ決勝(対ボルシア・ドルトムント)を境に、流れが大きく変わったように見えます。小さな故障もあって活躍できずタイトルを落とし、その故障がW杯にも大きく響いた。そしてその年の11月には左膝の大怪我…。あの試合の前後で、あなたにとって何が変わったのでしょうか?
「うーん。何も…(ためいきをひとつ)。いや、何も変わらなかった、といったら嘘になりますね。ぼくの経験のストックは、より幅広く、また豊富になったわけだし。でも、あれ以前にもあの後にも、大事なところで勝てなかったことはありました。2位に終わるというのは、あえてどのくらいとは言いたくありませんが、すごく悔しくて辛いことです。でも、ぼくは常に重要なタイトルを争うところで戦ってきたし、そのことは誇れることだと思っています。そのうちいくつかは、それを勝ち取れるだけの運と能力に恵まれたし、残りは恵まれなかった。でも、これまでずっとぼくが示してきた継続性と安定感もまた、非常に重要な結果だと思っています。
 一度だけ勝つことはそれよりも難しくありません。そのチャンスなら誰にでもある。宝くじに当たる可能性は誰にでもある。でも、4回も5回も続けて当たるのはすごく難しいでしょう。でもユーヴェは、1年を除けばいつもトップを争ってきた。ここ2年だって、セリエAでは2位でした。常に主役として戦ってきたんです。あと一歩のところで届きませんでしたが…」

―確かにユーヴェはいつもタイトルを争ってきた。まったく駄目だったのは、あなたが大怪我をしてリッピが辞任したあのシーズンだけでした。でも、ここ2年タイトルを続けて逃したことも事実ですよね。あるいは、あなたが言ったように、これまでの重要なファイナルでも勝ったり負けたりしてきた。その勝敗を分けるものはどこにあるんでしょう?
「勝敗というのは、いろいろな要素に左右されるものだと思います。勝利に対する欲望をどれだけ強く持っているか、相手と比べてどれだけ強いか、それに偶然にも左右されます。審判の判定ひとつで結果が違ってしまうこともよくある。リーグ戦と、チャンピオンズ・リーグのような一発勝負の決勝戦でも違います。決勝戦というのは特殊な試合で、前評判が低いチームがかなりの確率で勝ったりしますから。そうやって考えると、何が勝敗を左右するか、ひとことで言い切ることはできないと思いますね」

―“結局最後のところで勝負を分けるのは運だ”とよく言いますが、逆に、そういうふうに言い切るのは不可能だということですか?
「もちろん運も重要な要素のひとつですよ。チームの、あるいはひとりの選手の運とか勢いとかが、勝負の分かれ目になることだってある。でもそれも、いろいろな要素の中のひとつでしかない。そうだ、ミネストローネの具みたいなものですよ。運はミネストローネの中のニンジン、ってわけです(笑)。能力は豆で、経験はキャベツだ(爆笑)」

 勝敗の分かれ目はどこにあるか、といった、何かひとつの要素にすべてを象徴させようとする質問をするのは、わかりやすいドラマを求めるわれわれ観客の側の性癖でしかないのかもしれない。ミネストローネの喩えに1人でウケるデル・ピエーロの嬉しそうな表情の向こうにある、ピッチの上のリアリティは、きっと、ひとことで言い切ることなどできない、もっと複雑で重層的なものなのだ。

―フランスW杯の後、98年11月9日のウディネーゼ戦で左膝に大怪我を負いました。復帰してからも、最初は自分の感覚と自分のプレーとの間にギャップがあったのではないかと思いますが…。
「膝の怪我から復帰して、ぼくは事実上ゼロから自分を作り直さなければなりませんでした。もちろん、それまでの経験の蓄積やテクニック、プレースタイルといった、プレーヤーとしての財産がなくなったわけではありません。でも、8ヶ月、9ヶ月の間それを使わずにいたから、忘れてしまったものもあった。それを少しづつ思い出していかなければなりませんでした。それは例えば、たくさん引き出しがついた大きなクロゼットの前に立っているようなものです。9ヶ月ぶりにそのクロゼットの前に立って、ひとつひとつ引き出しをあけながら、自分に役立つものを取り出して使うようになっていく感じ。それは決して短い時間ではなかったし、すごく長かったわけでもないけれど、いずれにせよ大きな怪我をした後には避けられないプロセスだったというわけです」

―またゼロからはじめなければならないというのは、かなりヘヴィーなことだったのではないかと思いますが…。
「いや、そんなことないですよ。ぼくはこの怪我をうまく消化できたと思う。ゼロからもう一度というのは、復帰したときではなく、怪我をしたその時からわかっていたことだし、受け入れる覚悟はできていました。いわば、怪我をした時から、新しい本が始まったようなものです。そこに新たな章を書き進めて行かなければならない。リハビリから始まって、毎日のエクササイズやトレーニングは、1日に1行や2行かもしれないけれど、その本を書き進めるという作業であり、今もそれが続いているということです」

 復帰した最初のシーズンは、なかなか流れの中でゴールが決められなかった。何ヶ月か過ぎた頃からマスコミは、デル・ピエーロはもうかつての彼には戻れない、といった、かなり厳しいことを書き立てるようになる。それがまた新たな重圧となって彼の上にのしかかってきたであろうことは、想像に難くない。
 
「当時も今も変わらないことなんですが、はっきりしているのは、ぼくがいい試合、いいプレーをすれば、叩かれる可能性を最小限に抑えられるということです。その意味で、状況を変えるのは、まず誰よりもぼく自身だということですね。いいプレーができたときはそれでOK、そうじゃなかったときは仕方ない、アーメンといって祈るしかありません。筋が通った批判は受け入れるし、そうじゃないものにはもういちいち怒ったりはしません。頭にも来ない。無視するだけです」

―そういう中で2シーズン、自分をゼロからつくり直しつつプレーしてきたわけですが、完全に自分が戻ってきた、プレーヤーとしてすべて元通りのデル・ピエーロになれたという確信を持てたのは、いつのことだったんでしょう?
「父が死んだ時からです。それを境に、多くのことがずっと単純に思えるようになりました」

―ということは、精神的なところに鍵があったということでしょうか?
「たぶんそうなんでしょうね。困難に立ち向かうときの姿勢が変わったんだと思います。サッカーをしている中での困難なんて、どんなものでも父の死に比べたら大したものではありません。以前は、困難にぶつかるたびにそれが山のように見えていたけれど、今は小さなハードルくらいにしかみえない。その気になりさえすれば乗り越えられるものだと思えるようになったんです。父は最後にそれを教えてくれました。ぼくのことを思ってくれたからこそ、それを気づかせてくれたのだと思っています。今のぼくは、より大きな安心感、空の上の父から守られているという感覚があります」

―この辛い経験を通じて、あなたの中で何が変わったのでしょうか?
「確かに辛い経験でした。父の側にいた家族にとっても、厳しく苦しい日々でした。何ヶ月も前から、父が助からないことを知っていながら、それを彼に気づかせないようにして、人生の最後に少しでも多くの喜びを味わってほしいと願いながら過ごしたからです。いま自分がこの社会の中で担っている立場とか、自分が持っているお金とか、そういうものでは解決できないことも残念ながら世の中には少なくない。ぼくは医者に支払うたくさんのお金を持っていたけれど、父の命を救うことはできなかった。そんなものがあってもなくても、人生の真実と向き合うべき時には、向き合わなければならないんです。でも、目の前の小さな問題ならば、それをもっとシンプルに捉えるだけでそれが解決する、いや、問題自体が存在しなくなることだって少なくはありません。父の死そのものは、今でも完全には受け入れることができずにいます。父がもうこの世にいないなんて間違っているとしか思えない。でも、現実がそうならばそれを受け入れ、自分のやっていることに誇りを持って生きていく以外にありません」

―家族の存在は、あなたがここまでたどり着く上で、どれだけ重要だったのでしょう?
「とても重要でした。13歳の時に、サッカーのために家を離れるというぼくの選択を受け入れ、応援してくれたのですから。反対もしなかったし、条件もつけなかった。ぼくが夢にチャンレンジするのを、最初からずっと支えてくれたんです。そしてその夢は実現しました。それにはぼくの実力もあれば、運もあった。でも、どんなときでも、辛いときにもずっと家族がそばにいてくれたから、今のぼくがあるんです」

 父ジーノ氏の死からわずか数日後、バーリ戦に途中出場したデル・ピエーロがゴールを決めたときの表情は忘れることができない。ボールがゆっくりと弾んでゴールネットを揺らした直後、ふたつの拳を握りしめ、泣き叫ぶように天を仰いで雄叫びを上げる。彼のプレーに何かがふっきれたような鋭さが戻ったのは、確かにこの時からだった。
 
―大怪我をはじめ、その後の様々な重圧にもかかわらず、あなたはここまで戻ってきた。自分を強い人間だと思いますか?もしまだ弱いところがあるとすれば、それはどこだと思いますか?
「ぼくに言えるのは、ここまでの間にたくさんの、重要で厳しい経験を積み重ねてきて今の自分があるということです。その経験がぼくの視野や可能性を広げてくれたのだと思っています。精神的に、あるいは他の意味でどれだけ強い人間であることができるのかはわかりませんが、自分には才能や資質があるとは思っています。でも、これでもう完璧だとか十分に経験を積んだとか、そういう風に思った次の瞬間に、人生からひどいしっぺ返しを喰らう。毎日の努力の積み重ねによってしか前に進むことができないというのが人生の真実だと思うし、ぼくはそういう風に考えるようにしています」

―勝利やタイトルをつかむために、自分にはまだ何か足りないものがあると思いますか?もしあるとすればそれは何なのでしょう?
「ぼくは、運に関してはまだまだ貯金があると思っています。これまで勝ち取ってきたタイトルはそれに見合うだけの働きをしてつかんだものだと思っていますから。重要なタイトルを勝ち取りたいという気持ちはすごく強い。それが実現できるかどうかは、実力、努力、運、そしてどれだけ強く勝ちたいと望むかにかかっていると思っています」

 このインタビューの数日後、ユヴェントスで2年間、監督としてデル・ピエーロを指導し続けたカルロ・アンチェロッティに話を聞く機会があった。勝つために彼に足りないものは?という、同じ質問をぶつけてみると、帰ってきたのは次のような答えだった。
「デル・ピエーロは選手として成熟の域に達しつつあります。常に、チームの組織の中で自らの持つクオリティを発揮することを意識しながらプレーしている。自己中心的なところはないが、アタッカンテに必要なエゴイズムはちゃんと備えている。人間的にも、プレーヤーとしても申し分ない。大きなタイトルを勝ち取るために、彼に欠けているものは何もありません。これまでのチャンスで活躍できなかったのは、たまたま悪いタイミングで故障が巡ってきたせいでしかありません。今度、いい状態でワールドカップを迎えることさえできれば、主役として活躍する条件はすべて整っていますよ」 

―あなたがセリエAにデビューしてから今までの間に、サッカーも変わったし、デル・ピエーロという選手も変わったと思います。それぞれどのように変わったと思いますか?
「サッカーは、もう少し以前からだと思いますが、ピッチの上ではよりスピーディになりましたね。ピッチの外ではよりストレスが大きくなり、よりマスコミで議論されたり叩かれたりするようになり、ビジネスの利害が入ってくるようになり、むしろこっちの方で大きく変わったような気がします。
 ぼく自身ももちろん変わりました。変わったというよりも、より完成されたと言った方がいいかな。精神的な面でいえば、ユーヴェのようなビッグクラブで、大きな責任を背負いながらプレーし、大きな選択に直面してきたという経験は貴重な財産になっています。肉体的にも、27歳のいま、19歳の少年だった当時と違うのは当然のことです。筋肉もついて体重も少し増えたし、持っていた資質や技術をより伸ばして完成に近づけようとしてきました。以前、若い頃は、1試合に一度か二度の、テクニックやファンタジーアがあふれる派手なプレーをするのが楽しくて、それを見せられればそれで自分も回りも満足していましたが、今はそれではまったく不十分です。むしろ、それはそれで意識しながらも、コンスタントにチームの中で機能し、その時々で最適な選択をしながらプレーすること、必要があればフリーランニングでスペースを作ったり、シンプルなパスを出したり、すべての可能性に360度の視野を開いてプレーすることを心がけています」

―以前のインタビューで“ゴールがすべてではない”と言っていましたね。でも最近は何度か“ゴールを決めなければ意味がない”というコメントも目にしました。
「ノー。そうは思ってはいません。外部の人々の評価基準にとっては、確かに“ゴールがすべて”です。でも、ぼく自身の評価基準の中ではそんなことはまったくありません。あまりいいプレーができなかったけれどゴールをひとつ決めて、翌日の採点で7点をもらったことは何度もあります。OK。でもぼくにとってはまったく7点に値する試合じゃないし、その評価が現実を反映しているとも思わない。もちろん、ゴールを決めることには、他のプレーとはレベルの違う喜びがあります。でも、ぼくの評価基準はゴールだけじゃない。それは以前からずっと変わっていないし、ぼくがこれまで勝ち取ってきた結果は、自分の考えにしたがってプレーを追求してきた成果だと思っています」

―最後に、代表の話を聞かせて下さい。ユーロ2000では、最後の最後でフランスに敗れてしまいました。あそこでイタリアが勝てなかったのは何故か、フランスの強さはどこにあったのか。あなたはどう思っていますか?
「だから、様々な要素のミネストローネですよ(苦笑)。すごくたくさんの要素が絡み合った結果、ああいうことになってしまった。我々が2点目を取れなかったこと、ディフェンスのいくつかのミス、試合に向かう姿勢という点でも完全無欠ではなかったかもしれないし、ロスタイムを2分も多く取った審判の存在もあった。運もあったし、相手の実力もあった。それらすべての結果として、フランスが勝ちイタリアが負けた。そういうふうにしか説明できないものです」

―フランスのシンボルといっていい選手はジダンです。彼は代表ではつねに主役として勝利に貢献してきました。まだあなたは経験していない役回りです。彼の方がより“勝者”であるといってもいいと思います。その違いはどこにあると思いますか?
「クラブのレベルではずっと一緒にプレーしてきて、同じタイトルを取り、同じタイトルを落としてきたわけだから、その点では違いはないと思います。でも、代表でワールドカップを勝ったという事実は、その反響度がまったく違う。彼らはホームで戦って、勝利を勝ち取った。ジダンがそれを通じて、知名度とか名声とかいう点でも、非常に大きなものを得たことは間違いありません。世界中の人々が注目する大会で勝利したという事実は、ぼくたちがクラブで勝ち取った勝利よりも、ずっと大きな評価や反響をもたらしたということです。それと比べるとぼくは、ワールドカップを勝ったわけじゃないし、その点だけでも出発点からハンデがある。評価や名声の点で差がつくのは当然だし、それはそれで理にかなったことだと思ってますよ」

―あなたはこれまで、3度の大きな大会を、力を発揮できないまま終えています。次のワールドカップには期すものがあると思いますが…。
「もちろんです。今度こそは、イタリアがこの60年間たった一度しか成し遂げていない偉業を達成したい、達成できると強く思っていますし、それにできる限り貢献したいと思っていますよ」■
(2001年10月11日/初出:『Number PLUS』)

Posted at 01:35 午前    

金 - 11月 28, 2008

カルチョスキャンダル直後のセリエA開幕雑感(2006.09)


 アーカイヴ#103。更新が途切れがちな今日この頃ですが、少しずつでも継続はして行くつもりです。今回は、2006年夏にイタリアサッカー界を揺るがせたカルチョスキャンダルを経て、06-07シーズンが当初の予定より半月遅れで開幕した時の雑感を。まだ2年前の話でしかないのですが、もう随分経ったような気もします。首謀者ルチャーノ・モッジは先頃GEA関連の裁判で懲役6年の求刑を受けたばかり。本題である審判買収絡みの裁判はまだこれからです。まあ最終決着まであと数年はかかるんでしょうが、とりあえずカルチョの世界から彼本人を排除することはできたので、それだけでも大きな成果には違いありません(間接的な影響力はまだ様々な形で発揮しているわけですが……)。

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◆  ◆  ◆


 先週末から、やっとセリエA、Bが開幕した。カルチョスキャンダルの嵐が吹き荒れた夏の間は、下手をすると9月末くらいまで日程すら決まらないんじゃないかという気がしたものだが、何とか2週間遅れただけで始まってくれて、ほっと一息である。いつまでも買収だ裁判だ処分だという話ばかり追いかけているよりも、スタジアムの空気を吸って人とボールの動きを追いながらあれこれごたくを並べる方が、ずっと人間らしいまっとうな生活というものだ。

 しかし、実際に始まってみると、今シーズンのセリエAにはカルチョスキャンダルの爪痕が深く刻まれていることを、改めて目の当たりにすることになる。

 今さらながら、といわれるかもしれないが、最も象徴的な出来事は、やはりビッグネームの相次ぐ国外流出だろう。
 ユヴェントスからは、カンナヴァーロ、エメルソン(レアル・マドリード)、トゥラム、ザンブロッタ(バルセロナ)と、4人のワールドクラスがスペインに去った。ミランからは、シェフチェンコ(チェルシー)、スタム(アヤックス)、ルイ・コスタ(ベンフィカ)、フォーゲル(ベティス)の4人が、インテルからもマルティンス(ニューカッスル)、ヴェロン(エストゥディアンテス)、キリ・ゴンザレス(ロサリオ・セントラル)、セーザル(コリンチャンス)と、やはり4人がイタリアを後にしている。ローマからはクフレ(モナコ)、ノンダ(ブラックバーン)、ミド(トッテナム)、さらにはエンポリで昨シーズン19ゴールを挙げたタヴァーノ(ヴァレンシア)も、流出リストに加わった。

 何だ、大半はキャリア終盤のベテランじゃないか、と言われるかもしれない。そしてそれはその通りだ。しかしそれでも、セリエAがこれだけ多くのビッグネームを一度に失ったことは、今だかつてなかった。

 それをなおさら深刻に感じるのは、新たにイタリアにやってきた外国人選手のリストを見た時である。ビッグネームと言えるのは、インテルの右SBマイコン(モナコ/移籍金600万ユーロ)と、ミランのFWリカルド・オリヴェイラ(ベティス/2000万ユーロ)という、ふたりのブラジル人くらいだろう。とはいえ両者とも、ワールドカップではセレソンの23人枠に入ることができなかった。

 セリエBでは、ユヴェントスがニューカッスルからフランス代表CBブームソンを、ジェノアがリーヴェルプレートから元アルゼンチン代表FWフィゲロア(スペインでは通用しなかった)を獲得している。それ以外に、ちょっと名前が知られているのはキエーヴォが獲得したポーランド代表のコソウスキ(サウザンプトン)くらいか。ルコヴィッチ、スケラ、オーグロ、クネゼヴィッチ、ペナルバ、オガサワラ、セメード、ジヴァノヴィッチ、モリモトと聞いて、3人以上ピンとくる名前があったら、よほどのワールドサッカー通か日本人のどちらかである。

 これは何を意味しているのか。それは、イタリアにはもはや、インテルとミラン(とユーヴェ)以外に、外国人のビッグネームを買えるだけの資金力を持ったクラブが存在しないという事実である。つい5、6年前までは、そこに加えて、パルマ、ローマ、ラツィオ、旧フィオレンティーナという「ビッグ7」が(一時的な)隆盛を誇っていた。多くの大物外国人がセリエAでプレーしたのも、それゆえだった。

 しかし、TV放映権バブルが弾けた2001年以降、上記の4クラブはいずれも財政が破綻かその寸前まで行き、大物外国人を獲得するどころか手放すことで何とか命脈を保つ始末。今やイタリアのクラブの平均的な購買力(ビッグ3除く)は、ヨーロッパの有力国の中では、イングランド、スペインはもちろん、ドイツにも及ばなくなっているのではないだろうか。

 と思ってちょっと調べてみたら、イタリアの日経新聞と勝手に呼ばせてもらっている『イル・ソーレ・24オーレ』が、ヨーロッパ5大リーグそれぞれについて、参加クラブの売上高総計(=各国リーグの市場規模)を比較している記事がみつかった。それによると、トップはプレミアリーグで16億8500万ユーロ(約2528億円)。これは予想通りだが、2位、3位は意外なことにブンデスリーガ(13億700万ユーロ=約1960億円)、リーグ・アン(9億4700万ユーロ=約1420億円)と続く。リーガ・エスパニョーラとセリエAは、ともにおよそ9億1000万ユーロ(=約1365億円)で最下位となっている。

 その内訳は大きく、入場料、TV放映権料、スポンサー、マーチャンダイジングの4項目に分かれているのだが、それを見ると、プレミアは入場料だけで6億2000万ユーロ(約930億円)と、全収入の1/3以上を稼ぎだしているのだが、セリエAの入場料収入はわずか1億2000万ユーロ(約180億円)で、全体の1割強にしか達していないことがわかる。

 イタリアのスタジアムは、総じて設備が古い上に汚いし、スター選手も少なくなってスペクタクル度も低下するしで、当分入場料収入の増加は望めそうにない。それどころか、今シーズンの年間チケット売上高などは、ほとんどのクラブが軒並み前年比大幅なマイナス。ミランなどは、5万人から3万2000人に、-40%近い減少となっている。インテルも4万1000人から3万1000人へと、25%もの減少だ。サッカーがこれだけ生活と社会に根付いているイタリアにして、ついに人々の足がスタジアムから遠のき始めているというのは、その代わりみんなTVにかじりついていることはよく知っているにしても、ちょっとショックである。まあぼく自身は、そんなことにお構いなくスタジアムに足を運び、カルチョと付き合い続けて行くつもりだが。■
(2006年9月17日/初出:『El Golazo』連載コラム「カルチョおもてうら」)

Posted at 02:55 午前    

土 - 11月 15, 2008

フィオレンティーナの中田さん(2004.08/2005.01)


 アーカイヴ#102。中田英寿が3シーズンを過ごしたパルマからフィオレンティーナに移籍したのは、2004年夏のことでした。パルマでの3シーズン目はプランデッリ監督と決定的に噛み合わずに出場機会が減少、冬のメルカートでボローニャにレンタル移籍したりもしました。このフィオレンティーナ移籍は、本来のポジションで本来のパフォーマンスを発揮する大きなチャンスのように見えましたが、故障が長引いたこともあって結果的には期待を裏切るシーズンに終わりました。後から振り返れば、これが斜陽を決定づけた1年ということになったわけですが……。
 ここには、移籍決定時に『Number』に書いた短い原稿と、その半年後にフィレンツェに取材に行って今はなき『SPORTS Yeah!』に書いた長めの原稿をセットで載せておきます。

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◆  ◆  ◆


◆フィオレンティーナ移籍が決まった中田英寿の未来

「イタリアではもう6年プレーしているけれど、クラブを移ればそのたびにゼロからの再出発。フィオレンティーナにとっても、これがセリエAで再出発を切るシーズンになる。新たな気持ちでチームとともに飛躍を目指したい」

 セリエA7度目の開幕を、ペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャに続く5つ目の新天地・フィレンツェで迎えることになった中田英寿の、移籍会見でのコメントである。

 21歳でペルージャに移籍し、ユベントス相手に2ゴールを決めた鮮烈なデビューは、今なお記憶に新しい。しかしそこから始まったイタリアでのキャリアは、おそらく喜びよりは苦難の方が多い道のりだった。とりわけパルマ、ボローニャで過ごしたこの3シーズンは、ボランチやサイドハーフなど、それまで経験したことのないポジションでのプレーを求められ、それに応えるための試行錯誤に費やされてしまった印象も拭えない。結果的にプレーの幅は大きく拡がったものの、プレイヤーとしての明確な個性や強みは、むしろぼやけてしまったようにも見える。

 中田ももう27歳。持てる資質、そしてこれまで蓄積してきた様々な経験を土台に、そこから何を取り、何を捨てて、自らのプレイスタイルをどこに収斂させていくのか。そしてそれをピッチのどの領域で、いかに表現していくのか。フットボーラーとして心身ともにピークを迎えるこれからの2、3年が、欧州のトップレベルに飛躍できるかどうかを左右する、本当の勝負どころである。

 だとすれば気になるのは、果たしてフィレンツェが、その勝負の舞台に相応しい場所なのかということだろう。先回りしてしまえば、その答えはイエス、ということになる。

 前オーナーの放漫経営による破産・消滅を乗り越え、この名門クラブをセリエA復帰に導いた新オーナーのディエゴ・デッラ・ヴァッレ(高級靴ブランド「トッズ」のオーナー経営者)は「フィオレンティーナを数年のうちに、都市フィレンツェに相応しい地位、すなわちセリエAの上位まで引き上げる」という明快なビジョンを打ち出している。昇格1年目の今シーズンも、停滞する移籍市場を尻目に、中田だけでなくポルティージョ(FW、Rマドリー)、ウイファルシ(DF、ハンブルガー)といった即戦力を補強、A残留にとどまらず、中位、そしてさらに上を視野に入れた野心的なチーム強化が進みつつある。財政的に余裕がなくA残留がほぼ唯一の目標となる今のパルマやボローニャと比べても、ずっと充実したチーム環境である。

 エミリアーノ・モンドニコ監督は、中田の“恩師”マッツォーネと同様、選手を戦術の枠に当てはめるのではなく、それぞれの個性をうまく組み合わせて組織のバランスを見出そうとするセレクタータイプの指揮官で、中田の相性は悪くなさそう。「中田のように重要な選手には自由を与え、周囲がそれをサポートすべき」という発言からも、チームの中核として期待していることがうかがえる。

 肝心の中田本人は、7月21日からキャンプに参加したものの、春から悩まされているグロインペイン症候群(股関節の慢性的な痛み)をまだ少し引きずっており、8月10日現在、別メニューでの練習が続いている。とはいえすでに練習試合でもプレーするなど回復は順調で、全体練習への本格合流も間近のようだ。

 故障が完治した時が「ゼロからの再出発」のスタート地点。花の都フィレンツェを舞台に、キャリアの決定的な分岐点にもなりうる、非常に重要な一年が始まる。□
(2004年8月9日/初出:『Number』)


◆中田英寿の困難

 1月27日、フィレンツェ。スタジアムに隣接する練習グラウンドには、いつものように数十人のファンが集まり、練習を眺めながらフィオレンティーナ談義に花を咲かせている。ファンといっても、ほとんどは還暦過ぎの爺さんばかりだ。日本では若者が集まるプロサッカークラブの練習場も、イタリアでは暇を持て余すジジイたちの溜まり場なのである。

 カ行の音が軒並みハ行に変わる強烈なフィレンツェ訛りの会話を聞いていると、「ナハタ」、「ジャポネーゼ」という言葉が耳に引っかかる。そこで「中田、どうです?」と水を向けてみると、待ってましたとばかりに遠慮のない酷評が返ってきた。

「ナハタか?ありゃダメだ。シーズンが始まってから今まで、シュートを2本、アシストをひとつ。それで全部だ。フィレンツェに何しにきたんだか」
「全くだ。あれだけ騒がれて、背番号10を背負って、この体たらくじゃ弁解の余地なんてあるもんかい。落第だな落第」
「ナハタに言っといてくれ。これじゃ日本のスポンサーにも逃げられるぞ、ってな」

 前日ローマとアウェーで戦ったコッパ・イタリア準々決勝、中田英寿は90分間フル出場したものの、そのプレーはまったく精彩を欠いていた。ボールコントロールが不安定で、パスの精度も低い。運動量は十分だが、出足が鈍く動きに軽快さを欠いている。持久力はあるがパワーとスピードが足りない時に見られる兆候だ。股関節(昨年春から秋口)、腰(年末から1月半ば)と、すべての動作の支点として大きな負荷を受ける部位を痛めて休養を強いられ、十分なフィジカルトレーニングを積めなかったことと無関係ではないだろう。

 各紙の採点は軒並み及第点以下の5から5.5。添えられたコメントも「またもや失望。成功したパスは最も難しいもので1.5m。よく走ったが、行き先を間違っているか、遅れて到着するか、間に合ってもボールを失うかのどれか。これもまたひとつの才能か」(ラ・ナツィオーネ紙)、「前半は見るに堪えず。後半はややマシになったが」(コリエーレ・デッロ・スポルト紙)など、皮肉に満ちたものばかり。

 長いシーズンも折り返し点を回ったというのに、まだ持てる力の一端すら発揮することができず、不本意なパフォーマンスが続く背番号10に対して、フィレンツェは痺れを切らし始めているようだ。4日前の日曜日(1月23日)にホームで行われたセリエAのローマ戦では、後半20分に途中交代でピッチを去る中田に、情け容赦のないブーイングの口笛が降り注いだ。

 もちろん、マスコミやサポーターが苛立つ最大の原因は、ヴィオラの不振である。ミッコリ、中田、ヨルゲンセン、マレスカといった大物を補強、セリエA昇格1年目の上位進出を謳ってスタートを切ったまでは良かったが、そこからの歩みに最も似合う言葉は、おそらく「迷走」だ。開幕2ヶ月足らずでモンドニコ監督を解任、GKコーチのブーゾを昇格させ後任に据えたものの、状況が好転したのは束の間に過ぎなかった。監督交代直後に2連勝した後はずるずると後退、本稿執筆時点で順位は14位まで下がり、上位進出どころか降格ラインが足下まで迫っている。このローマとの連戦(セリエAとコッパ・イタリア)の間には、ブーゾ監督が解任され、今シーズン3人目の監督にディノ・ゾフが就任したばかりだ。

 アントニョーニ、バッジョ、ルイ・コスタといった英雄の系譜に連なる背番号10を背負い、攻撃の中心を担うことが期待された中田が、この不振に苛立つフィレンツェの人々から「A級戦犯」と見られるのは、どうしたって避けられないことだ。

 ウルトラスの連合組織ATFの幹部、フェデリコ・デ・シノーポリは、手厳しいながらも冷静に、こう解説してくれた。
「フィレンツェは厳しいからね。いいプレーをすれば熱狂的に賛えるけど、ダメな時には容赦なくブーイングだ。でも、昨日や日曜日だけじゃなく、これまでに一度も満足のいくプレーを見せてないんだから当然だろ。中田が並みの選手だったら誰もこんなことはしない。サヴィーニやギグーがひどいプレーをしたって、それが奴らにとって精一杯なんだから、誰も怒らない。でも中田は違うだろ。決定的な仕事をするため獲得されて、給料もたっぷりもらってる。ゴール、アシスト、直接勝利につながる仕事をしなきゃ意味がないんだよ。その点では、間違いなく今シーズン最大の失望だ」

 確かに、結果を求めるサポーターの立場からすればそうなるのかもしれない。だが、中立的な視点から中田の現状を眺めるプロの目にかかると、評価はまた違ってくる。

 「中田の不振には理解できる理由がある」と言うのは、セリエBの弱小チーム・ヴェローナを率いて現在4位と大健闘、イタリアの若手指揮官で今最大の注目と評価を集めるマッシモ・フィッカデンティ監督。37歳にして来日歴9回、「阿部勇樹に注目している」と言うほどの日本通でもある。

「股関節痛を長く引きずったという、コンディション上の問題がひとつ。監督が二度も替わるなどして今なおチームが固まっていないこともひとつ。モンドニコもブーゾも、組織の中で中田の力を引き出すポジション、起用法を見出すことができなかった。彼は、単独で局面を打開するのではなく、連携を生かして決定的な場面を作る選手だから、周りとの呼吸が合わないと持ち味を発揮しにくい。そのためにはある程度の時間が必要なのだが、今まではその余裕が彼にもチームの方にもなかったということだ。ゾフは、チームが本来持つポテンシャルを引き出すのが上手いから、中田をうまく機能させる解決策を見出すかもしれない」

 確かに、モンドニコは開幕前に構想した“中田をトップ下に置いた4-2-3-1”を一度も見ることなく解任されたし、突然の就任で即結果を求められたブーゾは、単独で局面を打開できるミッコリ、マレスカといった選手を中心に据え、彼らに依存したチームづくりをせざるを得なかった。コンビネーション志向が強いヨルゲンセンや中田が、その中で十分に力を発揮できなかったのも、偶然ではなかったということか。

 では、新監督ゾフはどのような形で中田を起用することを構想しているのだろうか。現時点でその手がかりになるのは、就任3日目の初采配となったコッパ・イタリアのローマ戦のみである。

 この試合でゾフ監督がピッチに送った布陣は3-5-2だった。中田のポジションは3ボランチの左。ところが試合は、開始早々からローマ攻撃陣が猛然とフィオレンティーナの3バックに襲いかかり、1対1の勝負に圧勝して何度も決定機を作り出す展開になった。守勢一方のヴィオラはすぐに5バック状態になり、中盤も押し込まれる形で後退、ボールを奪っても2トップは遥か彼方で、攻撃の組み立てさえままならない状況が続く。中田も、元々不得手な守備に忙殺されながらも大した貢献は果たせず、攻撃に転じてもミスばかりがが目立つなど、マスコミの評価通り散々な出来だった。

 ゾフ監督は後半、FWファンティーニを下げてMFヨルゲンセンを投入、最終ラインも4バックに修正して敵の3トップに対応する布陣とした。システムは4-2-3-1。中田はヨルゲンセンと並んでトップ下に入り、センターライトを起点に自由にポジションを入れ替えながらプレーした。内容的には前半よりは好転したとはいえ、ミスが少なくなっただけで、決定機につながる質の高いプレーは見せずじまいに終わっている。

 チーム全体の出来は明らかに後半の方が良かったのだが、それは前半勢いに乗って攻め立てたローマが、1点リードした後半ペースを落とし、試合をコントロールしに来たこととも無関係ではない。それも含めて考えれば、今後の試合でゾフ監督が3バックと4バックのどちらを基本とするか、判断できるほどの材料はまだないと言わざるを得ない。中盤とトップ下という2つの異なるポジションで起用した中田をどう評価し、今後どのように起用しようとしているのかについても、それは同様だ。

 気鋭の指揮官フィッカデンティの目には、中田のプレーはどう映っているのだろうか。
「中田は、攻撃的な中盤のポジションならどこでもこなせる柔軟性を持っている。セカンドトップでもプレーできるが、あまり前にいると本来の持ち味、つまり遠目から前を向いてラストパスを出したり、前線に走り込んだりするプレーが出しにくい。1対1の突破力や狭いスペースでの局面打開力があるわけではないので、高目のポジションだと厳しい部分はある。ローマとの試合でも、トップ下ではあまりいいところがなかった。中盤から前に出て攻撃に絡んでいく形の方が、持ち味が出せると私は思う。メッザプンタ(半FW=トップ下)よりはメッザアーラ(半ウイング=3ボランチの両側いずれか)が向いているということだ。同じ中盤でも、2ボランチの一角だと守備力に不安がありすぎるが……」

 “メッザアーラ”は、パルマの1年目後半(カルミニャーニ監督)、そして昨シーズンのボローニャで担ったポジションである。いずれの時も、豊富な運動量、シンプルかつ正確なパスワーク、卓越したキープ力など、中田の持つMF的な長所がうまく引き出され、高いパフォーマンスを見せた。特にボローニャでは、マッツォーネ監督から全幅の信頼を受けたこともあり、思い切った攻撃参加も随時見せつつ、ここ数年で最も楽しそうにプレーしていたものだ。

 一方、“メッザプンタ”、つまりトップ下でプレーしたのはペルージャでの1年半、ローマでの2年目(トッティの控えだった)、パルマの1年目前半(ウリビエリ監督)、そして今季の何試合か。今振り返ってみると、チームの中で決定的な役割を果たしたのは、ラパイッチとのカウンターアタックを最大の武器にしていたペルージャ時代のみであり、パルマ時代、そして現在は、フィッカデンティ監督の指摘通り「1対1の突破力や狭いスペースでの局面打開力に欠ける」というプレースタイル上の弱点が壁になっているようにも見える。パルマでは右MFとしてもプレーしたが、これはまず中田本人にとって不本意な起用法だった。

 中田英寿の本来のポジションはどこなのか? トップ下なのか、中盤なのか? その議論は、日本だけでなくイタリアでも、今まで何度もなされてきた。その問いには今も最終的な答えは出ていない。21歳でセリエAにデビュー、1年目で10ゴールを決めた風雲児も、気がつけばもう28歳と成熟期にさしかかった。これからピークに向かうキャリアの中でプレーヤーとしての最終的なアイデンティティをどう確立していくのか、そして2006年を目指す日本代表の中で、どんなポジションと役割を担うことになるのか。ゾフ監督の下でプレーするこれからの半年間が、その重要な節目になることは間違いないだろう。■

(2005年1月28日/初出:『SPORTS Yeah!』)

Posted at 06:52 午後    

火 - 11月 4, 2008

FIFA規程第17条という「劇薬」(2007.08/10)


 アーカイヴ#101。移籍制度に関して、ヨーロッパで問題になっているFIFA規程第17条の問題を整理した原稿があるので、追加でアップしておきます。昨年の8月と10月に書いた2本。一部話が重なっていますがそのままにしておきます。

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◆デ・サンクティスの移籍は「パンドラの箱」か

 7月10日、ウディネーゼに所属していた元イタリア代表GKモルガン・デ・サンクティスがスペインのセヴィージャに移籍した。一見すると単なる国際移籍に過ぎないが、実はこのケース、今後の欧州移籍マーケットを大きく変化させる重要な前例になる可能性がある。

 1995年のボスマン判決によって、契約満了後の自由な移籍が認められたことは周知の通り。しかしもちろん、契約期間中の移籍には、所属クラブ、選手、移籍先クラブの三者合意が必要だし、クラブ間には移籍金が発生することになる——はずだった。「はずだった」というのは、実際のところ、しごく当たり前のように見えるこの大前提すらも、今や絶対ではないからだ。

 問題は、2001年にFIFAが定め2005年に改訂された『選手のステイタスと移籍に関する規程』に盛り込まれた「クラブあるいは選手は、一定の保護期間(満28歳未満の選手は契約締結後3年間、28歳以上の選手は2年間)を経過した後であれば、一方的に契約を中途解消できる」という条項(第17条)の存在である。

 これは何を意味するのか。それは、保護期間さえやり過ごせば、契約期間中であっても一方的に契約解消を通告し、他のクラブと新たな契約を結ぶことが許される、ということである(ただし、中途解消直後に前所属クラブと同じ国のクラブと契約を交わすことはできない)。

 デ・サンクティスの移籍は、まさにこの条項を活用することによって実現したものだった。

 デ・サンクティスとウディネーゼは、2年前の2005年に2010年6月までの5年契約を交わしている。だが、1977年生まれのデ・サンクティスは満30歳で、今夏の時点で2年間の保護期間はすでに経過済み。そこで、ウディネーゼに対し、FIFA規程に基づく契約の一方的解消を通告すると、かねてから接触のあったスペインのセヴィージャと、新たに契約を結んだというわけだ。

 デ・サンクティス(とセヴィージャ)はウディネーゼに対し、FIFAの調停委員会が定める違約金を支払わなければならない。しかしその金額は、ウディネーゼがデ・サンクティスにつけていた値札(800-1000万ユーロ)の半分以下になるだろうと予想されている。つまりセヴィージャは、市場価格よりもずっと安い値段で狙った選手を手に入れることができたというわけだ。

 欧州のプロ選手がこの「FIFA移籍規程第17条」を行使した事例は、今回のデ・サンクティスを除くと、1年前にスコットランドでひとつあるだけ。規程そのものはすでに2001年に公になっていたが、移籍マーケットの秩序を根底から揺るがす可能性があるため、これまではタブー視されて誰も行使しようとしなかったのだ。

 しかしもちろん、一旦前例ができれば話はまったく違ってくる。例えば、もしロナウジーニョランパードが現在の契約を更新しなければ、今シーズン終了後には同じ手を使って好きなクラブに移籍することが可能になるのである。
 デ・サンクティスとセヴィージャは、新たなパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。□

(2007年8月30日/初出:『footballista』)


◆FIFA規程17条による移籍とその影響

 EU域内においてサッカー選手に移籍の自由を保証する「ボスマン判決」を欧州司法裁判所が下したのは、今から12年前、1995年12月のことだ。

 この判決によって、クラブ、選手間の契約交渉における力関係は大きく変化することになった。契約満了によるフリートランスファーの可能性を保証された選手側は、それまで圧倒的に強い立場だったクラブに対抗して、契約延長の拒否という強力な交渉カードを切れるようになったからだ。

 しかし、「域内における労働の自由公正な競争の担保」という原則に立つEUは、これでもなお満足していなかった。プロサッカー選手には、契約期間内に、自由意思による「転職」(移籍)が許されていない上に、移籍する場合にも移籍金という金銭の授受を伴う。これは明らかに雇用関係として公平性を欠いており、「労働の自由」と「公正な競争」に抵触する——というのが、EUの論理だった。

 ボスマン判決から3年後の1998年、EUスポーツ委員会は、移籍金の撤廃移籍の自由化を含む制度見直しを進めるよう、FIFAに勧告する。これを受けたFIFAは2001年、渋々ながら『選手のステイタスと移籍に対する規程』を発表することになった。EUの要求する「労働の自由」という原則を受け入れた結果、この規程は、双方の合意に基づかない一方的な契約解消を契約期間内においても認めるという、非常に重い内容を持っていた。

 以下、現行の規定(2005年改訂)を具体的に見てみよう。

 クラブと選手の契約関係についての原則論が記されている第13条には「契約は契約期間の満了あるいは双方の合意によってのみ、解消される」とある。しかし、これはあくまでも原則論でしかない。

 実際、その3つ後の第17条は、次のようなセンテンスで始まっている。「相応の理由(注1)なく一方的に契約を中途解消した場合には、次のような罰則が適用される」。これは、罰則を受けさえすれば一方的な契約解消が可能であることを言外に意味するものにほかならない。しかもその罰則は、契約解消の権利行使を妨げないほどに軽いものでしかないのだ。

 選手の側から契約を一方的に解消した場合の罰則は、1)4ヶ月から6ヶ月の出場停止、2)FIFAが個別に算定する違約金の支払い——という2つ。だが、1)の出場停止処分に関しては、一定の保護期間(満28歳未満で交わした契約は締結後3年、28歳以上は2年)を経た後の契約解消には適用されず、また2)の違約金も、マーケットにおける移籍金の相場を大きく下回るものになる。

 ここまでの回りくどい説明を要約すれば、「すべての選手は、契約書にサインしてから3年が過ぎれば、通常の移籍金よりもずっと安い違約金によって自由の身になれる」ということになる。もちろん、その違約金は本人ではなく、次に移籍するクラブが負担すれば済むことである。つまり、移籍先のクラブにとっても、市場価格よりずっと安いコストで選手を獲得できる抜け道が生まれたわけだ。

 唯一の制約は、契約解消から12ヶ月は同じリーグの他のクラブに移籍してはならないというもの。だがそれも、FIFA規程では明文化されていない申し合わせでしかない。

 これは、移籍マーケットの秩序を根底から揺るがす内容である。事実、規程そのものは2001年に公になっていたにもかかわらず、欧州のプロ選手や代理人は、2006年まで誰一人として行動に移そうとはしなかった。サッカー界全体にとって、ひとつのタブーのようなものだったのである。

 だがそのタブーは、ボスマンがそうだったのと同じように、辺境から破られることになる。2006年夏、スコットランドのハート・オブ・ミドロシアンに所属していた24歳のDF、アンドリュー・ウェブスター(注2)が、クラブに一方的な契約解消を通告し、プレミアリーグのウィガンと新たに契約を交わした。しかも、ウィガンには半年所属しただけで、今年の1月にはグラスゴー・レンジャーズにレンタル移籍している。背後で糸を引いていたのはどのクラブかは、言うまでもないだろう。

 そして5月、FIFA調停委員会がハーツに対して支払うようウェブスターに命じた違約金(注3)は62万5000ポンド(約1億5000万円)。これは、ハーツが主張した500万ポンド(約12億円)のわずか12%に過ぎない金額である。6ヶ月後にスコットランドに戻ったことに対しては、たった2試合の出場停止が言い渡されただけだった。

 一度前例が生まれてしまえば、タブーはその効力を失ってしまうものだ。今年の夏には、セリエA・ウディネーゼのGKモルガン・デ・サンクティスが、同じようにしてスペインのセヴィージャに移籍した。

 別項で見るロナウジーニョをはじめ、ランパード(チェルシー)やマンシーニ(ローマ)など、今シーズン終了後には保護期間を過ぎる大物選手は少なくない。彼らが次々と「FIFA17条」を行使することになれば、来夏の移籍マーケットは、ボスマン以来の大激震に襲われる可能性もある。□

注1)相応の理由
移籍規定の第14条では「スポーツ的に相応の理由があれば契約の中途解消が可能」とされ、第15条ではその「相応の理由」について「出場試合がシーズンの全公式戦の10%に満たない場合」と明記されている。

注2)アンドリュー・ウェブスター
1982年、ダンディ生まれのスコットランド代表DF。2003年に21歳で代表デビューし通算22試合に出場。現在はウィガンからレンジャーズにレンタルされているが、故障でほとんどプレーしていない。

注3FIFAが算定する違約金
移籍規程の第17条第1項には、契約の残余年数、契約書記載の違約金規定、当該国の法律などを勘案して決定されるとある。決めるのはFIFA裁定委員会。支払い責任は、選手と新所属クラブの双方にある。

ケーススタディ:ロナウジーニョ移籍問題

 ロナウジーニョとバルセロナは現在、2010年までの契約を結んでいる。推定年俸は900万ユーロ(約14億8000万円)。世界最高給フットボーラーの1人である。契約の残余期間はあと2年半強。これが並の選手であれば、まだ更新の話をする段階ではないが、彼ほどのレベルになれば事情は違ってくる。
 現契約が満了する2010年には30歳。そこからさらに契約を延長するかどうかは、両者にとって非常にデリケートな判断を要する問題だ。クラブ側から見れば、ロナウジーニョが32歳、33歳になっても15億円以上の年俸に見合ったパフォーマンスを提供してくれる可能性に賭け金を置くことを意味するし、ロナウジーニョにとっては、移籍の可能性を封印し、バルセロナでキャリアを閉じる決心をすることにほかならない。
 その決心がすでについているのならば、年俸引き上げのために駆け引きをしながら、最も有利なタイミングを見てサインをするだけだ。だが、もしイングランドやイタリアのクラブから魅力的なオファーがあり、それに魅かれているとしたらどうだろう。心身ともにフットボーラーとしてのピークにあり、あと少なくとも2、3年はトップレベルのパフォーマンスを保証できる28歳の今が、最高の売り時であることは間違いない。
 問題は、移籍金の高さである。バルセロナは、ロナウジーニョを売る気がないと明言し、ミランやチェルシーの5000万ユーロ(約82億円)以上と言われるオファーにも首を横に振ってきた。
 だが、ロナウジーニョが最後に契約更新にサインしたのは2005年。今シーズン末までに契約が更新されなければ、3年間の「保護期間」が終了し、バルセロナに一方的な契約解消を通告できる立場となる。一部報道によれば、ロナウジーニョ(と新たな所属クラブ)がバルセロナに支払うべき違約金は、2000万ユーロ前後。チェルシーやミランなら苦もなく支払える金額である。
 この権利をロナウジーニョが行使するかどうかはわからない。代理人を務める兄ロベルト・アシスは不敵にこう語るだけだ。「ロニーはバルセロナに満足している。でもこの世界は流れが速い。移籍の可能性がないと言い切ることは不可能だ」。■
 
(2007年10月30日/初出:『footballista』)

Posted at 05:32 午後    

土 - 11月 1, 2008

FIFAルールと国内移籍ルールの齟齬(2005.01)


 アーカイヴ#100。つい数日前、日本のプロサッカー選手協会がJリーグに対して移籍金制度の撤廃を働きかけたというニュースがありました。ところが、日本の新聞のサイトを見ると、移籍金というシステムそのものを撤廃するかのように読めたりして、いろいろ説明不足な部分もあるように思われます。日本の移籍制度については、ぼくもいろいろ思うところがあって、以前から何度か取り上げてきました。せっかくなので、それらをここでまとめて蔵出しすることにします。と言ってもとりあえず5本しかありませんが、これを通して読んでいただければ、何が問題かということくらいは整理できるのではないかと。
 選手の立場と権利を守るための労働組合的な役割を担う選手協会という点では、イタリアのプロサッカー選手協会(AIC)は1968年創設と世界で最も古く、これまで40年間の活動で非常に多くを勝ち取ってきています。FIFPRO(世界プロサッカー選手連盟)でもリーダー格。AICのセルジョ・カンパーナ会長は創立時、プロ選手を引退して弁護士としてのキャリアを始めたばかりだったのですが、それ以来40年間、無給の会長職を務め続け、カルトの世界では誰からも一目置かれているという、スーパーリスペクタブルな老紳士です。ぼくはAICと日本の選手協会の間を取り持つ準備があって、その話を選手協会の要職にある某選手に持ちかけたことがあるのですが、その後反応がないな……orz。
 というわけで、以下5つのエントリーは、日本の移籍制度シリーズです。この5本だけ特例として、アーカイヴの番号とシリーズの番号が逆順になっていますが、上から読みやすいようにという配慮でそうなっているだけですので。

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 移籍金や契約期限の問題をめぐって盛んな議論を呼び起こした中田浩二のマルセイユ移籍問題は、鹿島が契約延長を断念し、中田はフリーな立場でマルセイユと契約を交わすという形で決着がついたようだ。

 ようだ、というのは、この原稿を書いている時点では、移籍手続の詳細が不明のため。ネット上で得られる情報からすると、鹿島は、マルセイユから正式なオファー(移籍金を伴う)を受けながら、それを蹴って移籍金ゼロで手放すことを選んだように受け取れるが、もしそれが事実だとすれば鹿島の真意ははかりかねる。

 鹿島側の評価額と、マルセイユがオファーした金額に開きがありすぎることは確かに事実だった。しかし、鹿島側の評価額は、国際的な移籍市場の“相場”とはまったくリンクしていない日本独自の算出基準、いわば“国内限定の固定相場制”に基づいたものでしかない。日本のドメスティックなルールが通用しない国際移籍においてその適用を求めること自体に、無理があったといわざるを得ない。

 さて、上記の点も含めて、今回の“騒動”の根本にあったのは、世界標準のFIFA移籍ルールと、JFAが規定している国内移籍ルールとの不調和(齟齬といってもいい)である。

 FIFAルールは、96年のボスマン判決、そして2000年にEUで持ち上がった移籍金制度撤廃論議を経て、それに適合させる形でFIFAが2001年7月に公表し、同年9月から発効したものだ(各国協会はこれと国内移籍ルールとの調和を義務づけてられいる)。

 一方、日本の国内移籍ルールは、「Jリーグ規約」(92条および101条から112条)、そしてJFAの「プロサッカー選手に関する契約・登録・移籍について」とも、Jリーグ発足時の93年、つまり“ボスマン以前”に作られたものが土台となっており、その後サッカーの国際舞台で起こった大きな変化(ボスマン判決、移籍金撤廃論議)はほとんど反映されていない。

 93年当時、日本からヨーロッパや南米への国際移籍が起こることなど、ほとんど想定外だったことは十分に理解できる。しかし、96年のボスマン判決からはすでに8年、現行のFIFAルール発効からもすでに3年以上が経っている。その間、中田英寿に始まり、日本代表クラスの国際移籍はいくつもあったし、契約切れによる移籍金ゼロの移籍に関しても、広山という前例があった。客観的に見て、こうした国際的な移籍環境の変化に対し、JFAやJリーグは鈍感に過ぎたという感は否めない。当事者意識が希薄だった、といえばいいだろうか。同じことは、国際移籍を望む選手を抱えたクラブにも当てはまる。

 契約が満了した選手は移籍金ゼロで新たなクラブと契約できる、というのは、もはやFIFAによって国際的に認められたスタンダードだ。そうである以上、日本のサッカー界もこのスタンダードに対応する以外に選択肢はない。国際移籍に関してはもちろん、国内移籍に関しても、契約・移籍に関するシステムとルールを、現行のFIFAルールに順次適合させていくことは急務といえるだろう。

 「Jリーグ規約」と「プロサッカー選手に関する契約・登録・移籍について」に定められている契約更新や移籍の手続きは、クラブ側に交渉上非常に有利な立場を保証する内容になっている。93年当時は当然だったとしても、現時点から見れば、ボスマン判決や移籍金制度撤廃論議の中で選手に認められ、FIFAもそれを追認する形になった「労働の自由」に抵触すると言わざるを得ないものだ。

 具体的な検討は紙幅の関係で次回に譲りたいが(次回も続きます)、「専属交渉期間」の設定(12月末まで選手は他クラブとの接触すら禁じられている)、「自由交渉権」に対する制約(一旦所属クラブと“決裂”しなければ他クラブと接触できず、その場合選手は所属クラブとの交渉権を失う)、「移籍金算定基準」の内容(移籍金の高騰を防ぐという本来の趣旨から逸脱して独り歩きしており、国際移籍市場の相場ともかけ離れている)などは、FIFAルールに照らせば見直しを検討せざるを得ないように思われる。

 もちろん、痛みを伴わない改革はあり得ない。しかし、だからといって立ち止まっているわけにもいかないだろう。ハードランディングではなくソフトランディングを目指した、前向きな検討と見直しに取り組む時期が来ているのではないだろうか。■

(2005年1月26日/初出:『El Golazo』連載コラム「カルチョおもてうら」)

Posted at 02:20 午前    

“開国的”な契約・移籍ルールの見直しを(2005.02)


 アーカイヴ#99。日本の移籍制度に関する考察シリーズその2です。

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 中田浩二のマルセイユ移籍をきっかけにした、FIFA移籍ルールと日本の国内移籍ルールとの齟齬に関する話の続き。

 FIFAは、2001年に公表した移籍ルールを通して、契約が満了した選手は移籍金ゼロで新たなクラブと契約できる、というボスマン判決(96年)の内容を、世界標準として追認している。そうである以上、いまだ「ボスマン以前」の前提に立っているJFAの契約・移籍ルールを、順次FIFAルールに適合させていくことは急務――というのが前回の趣旨だった。

 ちょっと気になっているのは、今回の一件をめぐる論調、とりわけJリーグやクラブ側のそれを(スポーツ新聞のサイトなどを通じて)を見ていると、「したたかな外国のクラブに主力選手をタダで持って行かれるような事態が今後続出しないよう、防衛策が必要」というアンチ黒船的なニュアンスが強いようにも感じられること。

 それは確かにその通りなのだが、問題の本質が、FIFAルールと日本のローカルルールとの齟齬にある点は、忘れるべきではないだろう。そこに手をつけないまま、今回のような移籍金ゼロの国際移籍をブロックすることだけを目的として、さらなるローカルルールを積み上げるような方向に議論が向かうことは、注意深く避けなければならない。言い方を変えれば、ローカルルールの温存(下手すると強化)という“鎖国的”な発想ではなく、世界標準への適応という“開国的”な発想に立って契約・移籍のルールを見直すことが不可欠、ということだ。

 その観点からいえば、契約が満了しても移籍金が発生するという、いわゆる“30ヶ月ルール”の見直し(というか廃止)は、避けて通れない大きなポイントのひとつになる。契約満了後も選手を事実上拘束し自由な移籍(=転職)を著しく制約するこの規定が、FIFAルールの前提となっている「労働の自由」に抵触することが明らかである以上、手をつけないわけにはいかないだろう。

 そんなことをしたら国際移籍だけでなく国内でも契約満了による“フリー移籍”(以下便宜的にこう呼ぶことにする)が相次いでしまうのでは――という心配はいらない。複数年契約を結んで選手の保有権を確保しておけば、それで回避できることだからだ。今後は、クラブにとって“資産”となり得る有力選手に関しては、契約満了の1年以上前に契約を複数年延長していくという、ヨーロッパでは日常的に行われている対応が、日本でも不可欠になってくるだろう。

 問題は、選手が複数年の契約延長を拒否した場合か。この手のケースは、ヨーロッパでも近年しばしば起こっており、問題になっている。選手側の一方的な契約延長拒否による強引なフリー移籍が“仁義を欠いた”振る舞いであるというのは、世界中どこでも変わらない。最近はクラブ側が、契約延長を拒否した選手に対し、試合に起用せず飼い殺しにするという強行手段に出るケースもよく見られる。イタリアでは昨シーズン、ダーヴィッツ(当時ユベントス)、ピザーロ(ウディネーゼ)が、今シーズンもタッデイ(シエナ)がそうした扱いを受けた。

 シーズンが終われば移籍金をもたらすことなく“逃げる”とわかっている選手に活躍の機会を与えるよりも、その次の戦力にチャンスを与えて育てる方を優先する、というクラブ側の判断は、それはそれで筋が通ったものである。それでもなお“強行突破”しようとする選手は、1年間近くの間、出場機会を奪われるというリスクを冒さなければならない。これは決して小さくないリスクだ。

 こうした状況はお互いにとってマイナスにしかならないから、通常はそうなる前にお互いが歩み寄って妥協点を見出すということになる。あまりに寒々しい話に見えるかもしれないが、逆にそのくらい緊張感がある方が、クラブと選手、お互いの利害を明確にしたフェアな関係が築きやすいという気もする。その上で「情」という要素が入ってくるのであれば、それはそれでもちろんウェルカムだ。

 複数年契約が前提になっているヨーロッパの場合、残り契約期間が1年を切ると、逆にクラブ側に契約更新の意志が薄いと見なされる。実際、契約切れ6ヶ月前からは、選手、代理人が他のクラブと接触することが許されている。

 それと比較すると、単年契約が事実上の前提で、しかも所属クラブに「専属交渉期間」が認められているなど、選手の選択の自由が大きく制限されている日本の現行の契約更新手続きも、見直しは避けられないだろう。少なくとも、一旦所属クラブとの契約更新交渉が「決裂」しない限り、選手は他のクラブからオファーがあるかどうかすら知ることができないという現状は、「労働の自由」の観点からも望ましくないと思われる。■

(2005年2月3日/初出:『El Golazo』連載コラム「カルチョおもてうら」)

Posted at 02:18 午前    

日本の移籍制度が持つ理不尽(2007.06)


 アーカイヴ#98。日本の移籍制度に関する考察シリーズその3です。

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 日本のプロ野球界には「自由契約」という言葉がある。事実上、球団から戦力外の烙印を押されてクビになることを指している。一方、「任意引退」というのは、球団が保有権を所持したまま、プロ野球選手としての活動を停止することを指す言葉だ。

 日本ではプロサッカー界にも、事実上これと同様の仕組みが存在している。「契約期間満了後移籍金なしで移籍できるという項目を契約書に盛り込んではならない」(Jリーグ規約92条)というのがそれである。この条項を補完するのが、かの有名な「30ヶ月ルール」。Jクラブが提示した契約更新を拒否して契約満了を迎えた選手は、向こう30ヶ月間、移籍金なしで他のJクラブと契約を交わすことができない、というあれだ。30ヶ月のブランクは選手生命の終わりを意味する。日本では、プロ野球界もプロサッカー界も、選手の自由意思による移籍を許容しない仕組みになっているのである。

 しかしこのルールは、FIFAが規定する移籍ルールに抵触している。そのため、日本の国内市場にしか適用することができないローカルルールという位置づけにならざるを得ない。これが国外移籍の場合にはどうなるかというのは、すでに広山望、中田浩二の両選手が実践した通りである。

 日本では、契約更新の仕組み自体も、クラブ側に交渉上非常に有利な立場を保証する内容になっている。まずクラブは、契約を更新するかどうかの意思表示を、契約切れ直前の11月30日まで引っ張ることを許されている。契約満了を迎えた選手は、シーズンが終わる直前までその契約が更新されるかどうか、知らないまま過ごさなければならないわけだ。

 しかも、クラブが契約更新の意思を示した場合には、12月いっぱいを優先交渉期間(規約103条)として確保することが許されており、その間、選手には他クラブとの接触が禁じられている。これはつまり、残留・契約更新が交渉の暗黙の前提となっており、この時点で選手には他の選択肢がないということだ。しかも、この期間中にサインをしないと、契約更新を拒否したと見なされ、所属クラブとの交渉権を失う(規約107条)から、契約切れの時期に、所属クラブを含めた複数のオファーを比較検討して次のキャリアを決める、ということができない。

 これらの必然的な結果として、シーズンオフの12月、1月には、少なくない選手が突然、契約を更新しないことを告げられ「路頭に迷う」ことになる。その時点で、次のクラブを見つけるのが簡単ではないことは、容易に想像がつく。それを補完する手段がトライアウトということになるのだろうが、オフシーズンに、わずか1日、2日の機会で、選手の採否を決めるというのは、理不尽以外の何物でもない。

 本来ならば、選手を獲るか獲らないかは、その選手の潜在能力やパフォーマンスを時間をかけて検討し、性格なども含めてチームに相応しいかどうかを判断した上で、結論を出すべきものだろう。トライアウトがそれを補完する機能を持っているとは、とても思えない。一発勝負の入学試験的発想が、プロスポーツの世界で真面目に受け入れられていること自体、信じられないことである。

 あるチームで結果を残せなかった選手が、他のチームでも同じとは限らない。日本では、18歳で新卒を取ってC契約を交わし、2~3年サテライトで「修業」させて芽が出なかった使い捨て、というケースが少なくないと聞く。一旦プロ契約を交わしたら、保有権を持ちながら下位リーグにレンタルするなど、異なる環境とチャンスを与えながら、24歳くらいまで時間をかけて育てていくことも珍しくないヨーロッパと比較すると、ロスが多く非効率的で、選手を幸せにしないシステムではないかという気がするのだが。□
 
ヨーロッパの移籍システム

 クラブと選手の関係は複数年契約が基本。契約が満了すれば選手はフリーになり、移籍金ゼロで他のクラブと新たな契約を結ぶことができる。そのためクラブは、将来においてもその選手が戦力として必要だと判断した場合、契約が1年以上残っているうちに、2年、3年の契約延長をオファーして引き留めを図るのが普通である。契約の残り期間が1年を切ると、逆にクラブ側に契約更新の意志が薄いと見なされる。実際、契約切れ6ヶ月前からは、選手、代理人が他のクラブと接触することが許されている。

 このシステムの下では、すべての選手に「移籍の自由」が保証されている。所属クラブでの待遇(戦力的、経済的)に満足できず、よりいい条件でプレーできる可能性が他にあると考えれば、契約を更新しないという選択肢を手にして、6ヶ月をかけて次のクラブを探すことができる。その結果として、所属クラブと契約を更新することも可能。つまり、自分のキャリアを自分で決めることができる。移籍市場の流動性も高い。□
 
ケーススタディ1:ダヴィド・トレゼゲ

 1996年のボスマン判決から12年、ヨーロッパにおいて、FIFAの移籍ルールに明記された「契約満了後の移籍の自由」は、今や契約・移籍にかかわる大前提だ。 

 フランス代表FWダヴィド・トレゼゲとユヴェントスは、2008年6月までの契約を交わしている。その残余期間が1年となったこのシーズンオフ、トレゼゲはクラブが提示する契約更新のオファーを手にしながら、回答を保留中。

 選手の立場からすると、あと1年ユーヴェでプレーして契約満了にこぎつければ、他のクラブと自由に契約を交わすことが可能なので、焦って更新に応じる必要はない。一方のユーヴェは、移籍金ゼロでトレゼゲを失う事態を避けるため、トレゼゲが満足する条件で契約を更新するか、あるいはこの夏の間に本人も納得する形で他のクラブに売却するかの二者択一を迫られている(選手には移籍に対する拒否権がある)。

 シビアだがフェアで対等。これがヨーロッパにおけるクラブと選手の関係のあり方である。□
 
ケーススタディ2:ファビオ・クアリアレッラ

 6月6日の欧州選手権予選リトアニア対イタリアで2ゴールを決め、一躍注目を浴びたサンプドリアのファビオ・クアリアレッラ。この24歳のFWのキャリアは、イタリアにおける「晩成型」タレントのひとつの典型を示している。

 育成で定評があったトリノの下部組織で育ち、19歳でセリエAにデビューしたが、その翌年から2シーズン、セリエC1(3部リーグ)にレンタルに出されて経験を積み、2年目には32試合17ゴールという結果を残す。22歳になった04-05シーズン、セリエBに降格していたトリノに呼び戻され、7ゴールを挙げてA昇格に貢献した。

 続く昨シーズンは、セリエAのウディネーゼに移籍したが、そのウディネーゼも出場機会を与えて経験を積ませるため、同じAのアスコリにレンタルに出す。若くて有望な選手は、手元で飼い殺しにするよりも外に出してプレーできる環境を与えることが基本なのだ。

 そして今シーズンは、ウディネーゼから保有権の半分を買い取ったサンプドリアに移籍し、13ゴールと大ブレイクを果たす。下積みで経験を積みながら実力を養う機会が与えられたからこその、遅咲き開花だった。□

(2007年6月8日/初出:『footballista』)

Posted at 02:14 午前    

アンフェアな雇用関係(2007.11)


 アーカイヴ#97。日本の移籍制度に関する考察シリーズその4です。

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 今年もJリーグの全日程が終わり、契約更新の季節がやってきた。この時期になると、スポーツマスコミでは「戦力外通告」とか「解雇」とか、そういう言葉が頻繁に飛び交うことになる。

 毎年、スポーツ新聞のサイトなどでこの種のニュースを目にするたびに、何とも言えない気持ちになる。「戦力外」となった選手が気の毒だというのはもちろんなのだが、それ以上に、Jリーグの契約を巡る諸手続きについて、どうも納得の行かない理不尽さを感じるからだ。

 現在のJリーグの契約・登録・移籍に関するルール(*1)は、クラブに対して非常に有利な、ということは、選手にとって非常に不利な内容になっている。アンフェア、という言葉を使ってもいいくらいだ。

 契約満了にあたって、クラブから契約更新の意思表示を受けた選手は、「専属交渉期間」という規程によって、12月末までの1ヶ月間、残留と契約更新を暗黙の前提とした交渉を強いられる。しかも、この期間中にサインをしないと、契約更新を拒否したと見なされ、所属クラブとの交渉権を失うから、契約切れの時期に、所属クラブを含めた複数のオファーを比較検討して次のキャリアを決める、ということができない。さらに、かの「30ヶ月ルール」があるため、契約満了を迎えても「自由の身」になれるわけではない。自由意思による移籍の可能性は、著しく制限されている。

 問題は、そのように拘束力の強い関係で選手を縛りつけているにもかかわらず、クラブが契約更新をしないと決めれば、選手はシーズン終了直後に突然「戦力外」というレッテルを貼られて「解雇」され、路頭に放り出されるという点にある。

 1996年のボスマン判決以降、契約満了=フリーという基本ルールが浸透しているヨーロッパでは、契約の残り期間が1年を切ると、クラブ側に契約更新の意志が薄いと見なされ、契約切れ6ヶ月前から、選手、代理人が他のクラブと接触することが許されている。これは、所属クラブと契約を更新しない可能性のある選手には、その6ヶ月前から次の「仕事場」を自由に探す可能性を与えられているということだ。

 それと比べると、選手の側に「転職(=移籍)の自由」どころか「転職の可能性を探る自由」すらほとんど認められてないにもかかわらず、クラブには「解雇の自由」が保証されているというJリーグの現状は、選手にとってアンフェアな雇用関係だと言うしかない。本来この2つの「自由」はセットになっていて然るべきだからだ。

 「戦力外」になった選手にもトライアウトというチャンスがある、という反論もあるかもしれない。しかし、以前も書いたことだが、オフシーズンに、わずか1日、2日の機会で選手の採否を決めるという、一発勝負の入学試験的発想が、プロスポーツの世界で真面目に受け入れられていること自体、あり得ない話である。
 
 実は日本サッカー協会は今年の6月、移籍に関する世界標準であるFIFAの「選手のステイタスと移籍に関する規程」との文言上の矛盾点を解消するために、JFA規約の移籍関連条項を改正している。これによって、以前本誌でも取り上げた「FIFA規程第17条」(クラブまたは選手からの一方的な契約中途解除の可能性)の原則がJFA規約にも盛り込まれたほか、「30ヶ月ルール」「移籍金算定基準」という、FIFA規程に抵触するローカルルールが、規約の文言から削除された。

 それでは、このオフからは日本の移籍市場にもついに「ポスト・ボスマン」時代がやって来るのか、と言えば、まったくそんなことはない。国内移籍に関するローカルルールを定めた「プロサッカー選手に関する契約・登録・移籍について」が、内部規程として手付かずで残っているからだ。つまり、一般原則たるべきJFA規約からは削除されたが、Jリーグのローカルルールとしては100%生きているわけだ。

 この一件で明らかになったのは、JFAとJリーグには、少なくとも国内移籍に関しては当面、「移籍の自由」というポスト・ボスマン時代の世界標準を受け入れる意志がないということである(もし違っていたらぜひご指摘いただきたい)。その理由をぜひ伺いたいと思っているのは、筆者だけではないはずだが。■

(2007年11月30日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」

Posted at 02:11 午前    

プレ・ボスマン時代の移籍ローカルルール撤廃を(2007.12)


 アーカイヴ#96。日本の移籍制度に関する考察シリーズその5です。

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 前回の当コラムで、日本サッカー協会が今年の6月にJFA規約を改正して、FIFAが定めた世界基準である「選手のステイタスと移籍に関する規程」に抵触する内容、すなわち「30ヶ月ルール」「移籍金算定基準」といったローカルルールにかかわる文言を削除したこと、しかしながら当のローカルルール自体はJリーグの内部規程として残っており、国内移籍には依然、選手の自由を大きく制限する「プレ・ボスマン時代」のルールが適用され続けることを取り上げた。

 それを書いていて思ったのは、世界ではすでに10年以上前からスタンダードになっており、FIFAがそれに対応するよう求めているクラブと選手のよりフェアで対等な関係を、JFAとJリーグが今なお拒否し続ける理由はどこにあるのだろうか、ということだった。

 想像できるのは、FIFAルールの導入によってクラブの選手に対する拘束力が弱まり、よりいい条件を提示する資金力のあるクラブに質の高い選手が集中して、その結果クラブ間の戦力格差拡大につながるなど、「移籍の自由化」がもたらすネガティブな影響を危惧しているということ。

 思い出すのは、3年前に中田浩二がマルセイユに契約満了で移籍した際、旧所属クラブのトップが「こうしたケースが続出しないよう、Jリーグとして対策を考えてほしい」と発言していたことだ。そこには、何か想定外の問題が起こったときには「お上が何とかしてくれる」のを当然と考えるメンタリティが見え隠れしているように見えた。

 ずっと昔、筆者が経済記者のような仕事をしていた当時によく目にした、外国製品との競合で不利な立場になると行政に保護政策を陳情したり、業績不振を景気のせいにして嘆いたりしていた企業経営者の言い分と似ているように思えたのは、気のせいだけではないはずだ。

 日本のサッカーはまだ発展途上だから急激な環境の変化には耐えられない、プロテクトしなければ、という議論がある。それは一面、確かにそうかもしれない。しかし、保護政策というのは、それがいかなるものであっても原則的に現状維持を目的とするものだ。そして現状維持のための保護は、変革にブレーキをかけてしまうという決定的な欠点を持っている。

 日本のサッカーが最終的にワールドカップ優勝を目指す、つまり高い国際競争力を獲得しようとするのであれば、必要なのは世界レベルに追いつくための変革であって、現状維持ではない。契約と移籍のシステムを、最終的に世界標準に合わせることが不可避である以上、そこから目を逸らし続けることは生産的ではない。日本のサッカーがまだ発展途上だとしたら、逆にそうした環境変化をチャンスと捉えて、変革と飛躍のきっかけにすることも可能なはずだ。Jリーグ誕生の経緯からしてそうだったではないか。

 もちろん、経営環境が変われば自己変革できずに脱落していくクラブも出てくるかもしれない。しかし、環境が変わった時に、従来と同じことをしていれば危機に陥るのは当然だ。現状維持を既得権益だと思っているメンタリティからは発展はうまれない。

 確かに「移籍の自由化」は、資金力が少なく選手をつなぎ止めておくことができない中小規模のクラブが、現有戦力を保持することを困難にする。しかしそれは、競争原理からすればしごく当然のことである。ヨーロッパでも南米でも、そういうクラブは選手の育成・発掘に限られたリソースを注ぎ込み、新たなタレントを自らの手で育て上げては売却することで、生き残りを図っている。イタリアで言えばウディネーゼやアタランタはその最たる例である。現在セリエBで首位を争うピーサのように、他のクラブをお払い箱になった移籍金ゼロの選手を中心にチームを作って好成績を収めているチームもある。

 選手を不当に拘束する「30ヶ月ルール」、当初は移籍金の高騰を防ぐために設定されながら、逆に今は移籍金の高止まりをもたらしている「移籍金算定基準」(例えば20歳で年俸1000万円の選手を獲得するためには1億円の移籍金が必要になる)は、移籍市場の流動性を低下させ、クラブにJリーガーの安直な使い捨てを許しているように見える。このあたりの議論は、また機会を改めて掘り下げるつもりが、ともかく、日本にもそろそろ「プレ・ボスマン時代」のローカルルールを撤廃するべき時期が来ている。少なくともそのことは確かだと思う。□

(2007年12月4日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」

Posted at 02:08 午前    

月 - 10月 27, 2008

イタリアクラブ探訪6:ヴィチェンツァ(2001.05)


 情けない諸事情により(つか家賃の滞納で)サイトが数日間死んでいましたが、無事復活しました。  アーカイヴ#95。昨今の金融危機で、近年バブりまくっていたプレミアリーグにも嫌な影が差してきているようですが、今回はそのプレミアで売却の噂も出ているトッテナム・ホットスパーのオーナーである投資会社ENICが1997年から2004年まで保有していたヴィチェンツァのクラブレポートです。
 取材、執筆は7年前の2001年5月。当時ルカ・トーニを擁してセリエAで戦っていたヴィチェンツァは、このシーズン末に降格して以来、8シーズンに渡ってセリエBで戦っています。04-05シーズンにはプレーアウトで敗れてセリエC1への降格が決まりながら、コゼンツァが破産したおかげでBに残るという綱渡りもありました。ENICが04年に経営権を手放した後は、地元資本の共同出資によって経営されています。取材したシーズンにチームを降格に導いたエディ・レーヤ監督は、今ナポリを率いてセリエAの首位に立っています。

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 ペルージャのように名物会長がいるわけでもなければ、バッジョを抱えるブレシアや、有望な若手を次々と輩出するアタランタのような「目玉商品」もない。イタリア北東部ヴェネト州の小都市に本拠を置き、赤と白の縦縞をシンボルカラーとするヴィチェンツァは、一見すると地味な印象を受けるクラブだ。しかし、少なくともひとつ、他のどんなクラブとも大きく異なっている点がある。それは、セリエAのクラブでは唯一、イタリア人ではないオーナーを持っているということだ。現在ヴィチェンツァ・カルチョを所有しているのは、ENIC(English National Investiment Company)というやけに偉そうな名前を持つ、イングランドに本拠を置く投資会社なのである。

 97年1月に、前会長のダッラ・カルボナーラが脱税容疑で逮捕され、クラブの売却を余儀なくされた時に、ヴィチェンツァの全株式を買い取ったのが同社だった。現在では、ヴィチェンツァの他にもチェコのスラヴィア・プラハ(100%)、スイスのバーゼル(50%)、ギリシャのAEKアテネ(50%)、イングランドのトッテナム・ホットスパー(30%)の株式を保有しており、サッカークラブをひとつの投資の対象と見ていることは明らかだ。この事実が経営にどのように反映されているのかが、ヴィチェンツァというクラブを読み解く上で大きなポイントになるだろう。しかし、その前にまずは、このクラブのこれまでの足跡を振り返っておくことにしよう。

 ヴィチェンツァ・カルチョの創立は1902年。来年100周年を迎える名門である。セリエAにその名を連ねるようになるのは1940年代からだが、現在までの通算在籍年数30シーズンは、プロヴィンチャーレの中ではアタランタ(43シーズン)に次ぐ数字で、イタリアの全クラブ中13位にあたる。セリエA、Bにイタリアで最も多い6つのクラブ(00/01シーズン)を送り込んでいるヴェネト州の中でも、ヴェローナと並んでリーダー的な存在だ。

 とはいえその30シーズンの大半は、20年に渡ってセリエAの一角を占め続けた、1950年代半ばから70年代末にかけて積み重ねたものだ。その末期ともいえる77-78シーズンには、82年W杯で得点王に輝くことになる若きパオロ・ロッシを擁して、ユヴェントスに次ぐ2位という伝説的な偉業を達成してもいる。しかし、栄光の終わりははかないものだった。その翌年、財政難からロッシを失って、そのまま一気にセリエBに降格すると、79-80シーズンから94-95シーズンまでの16シーズンを、セリエBとC1を往復しながら過ごすことになったのだ。

 ヴィチェンツァの育成部門で育ったロベルト・バッジョが、わずか16歳でトップチームにデビューしたのも、C1で戦っていた82-83シーズンのことである。バッジョはその2年後、12ゴールを挙げてチームのB昇格に貢献すると、フィオレンティーナに移籍していく。その後の彼の活躍は誰もが知るとおりだが、バッジョが後にしたヴィチェンツァがセリエAの舞台に返り咲くまでには、それからさらに10年の歳月が必要だった。

 16年ぶりのセリエA昇格を果たしたのは、若手監督の中でもとりわけ評判の高かったフランチェスコ・グイドリンをベンチに迎えた94-95シーズンのことだ。当時プロヴィンチャーレの間ではまだ少数派だったゾーン・ディフェンスの4-4-2を採用し、積極的にゲームを支配するしたたかなサッカーをチームに植え付けた39歳の指揮官は、その後の3シーズン、ヴィチェンツァの歴史にひとつの時代を画す大きな実績を残すことになる。

 95-96シーズンは、A昇格1年目としては上々の9位。そして96-97シーズンには、シーズンの1/3を終えた10節の時点で首位に立つという快進撃を見せる。最終的には前年よりひとつ上の8位まで後退してシーズンを終えたものの、コッパ・イタリアでは決勝でナポリを下し、クラブ史上初めてのビッグタイトル獲得という偉業を達成。UEFAカップに出場して1回戦で敗退した78-79シーズン以来2度目となる、欧州カップへの出場権を獲得した。

 そして翌97-98シーズンには、そのカップウィナーズ・カップで順調に勝ち進み、誰も予想しなかったベスト4進出を果たす。準決勝の第1レグ、ジャンルカ・ヴィアッリとジャンフランコ・ゾーラのチェルシーをホームに迎え撃ち1-0で破った夜が、グイドリン時代のクライマックスだった。結局、ロンドンでの第2レグで1-3と力つき、決勝進出こそならなかったものの、クラブ100年の歴史の中で最も輝かしい1ページとなった。

 栄光の後に失意が待ち受けているのは、このクラブの運命なのかもしれない。グイドリン監督が惜しまれながらウーディネに去った翌98-99シーズン、レッジーナからやはり若手のフランコ・コロンバ監督を迎えたヴィチェンツァは、序盤から下位に低迷。シーズン半ばでコロンバからエディ・レーヤへと監督を交代させたものの復調の兆しは見えず、そのままあえなくB降格を喫してしまう。

 しかし、主力の大半を手放すことなく、セリエAへの即時復帰を目指した昨シーズンは、中盤戦にさしかかった第17節で首位に立つと、そのままシーズン閉幕までその座を一度も明け渡すことなく守り切り、堂々と優勝を飾ってセリエAに返り咲いた。

 レーヤ監督が留任し、チームを大きくいじることなく堅実な補強で戦力を底上げして臨んだ今シーズンの目標は、もちろんセリエA残留。今までこの連載を読んでこられた方ならもうおわかりの通り、セリエA昇格1年目に、これ以外の目標は立てようがないのである。


 
 ヴィチェンツァは、ミラノから鉄道で東に約2時間、ヴェネト州の中央部にある小都市だ。人口は10万人と、セリエAのクラブを持つ都市の中では最も少ないが、起業家精神に富んだヴィチェンツァ人の気質を反映して、イタリアで最も経済活動が盛んで豊かな地方都市のひとつに数えられている。

 ヴィチェンツァ・カルチョのクラブ事務所は、旧市街を取り巻くように流れるバッキリオーネ川に沿った並木道に面した2万人収容のこじんまりとしたスタジアム、ロメオ・メンティの敷地内にある。今回話を聞いたのは、クラブ運営の総責任者、ゼネラル・ディレクター(GD)を務めるリナルド・サグラーモラ。99年1月にヴィチェンツァに来るまで22年間、ローマ、ラツィオに次ぐローマ第3のプロサッカークラブ、ロディジャーニ(セリエC1)のGDとして、若手の育成に重点を置くユニークなクラブ経営を進めてきたやり手のディレクターである(ちなみに、ローマのキャプテン、フランチェスコ・トッティも元々はロディジャーニ育ちだ)。筆者にとっては、4年前にロディジャーニを訪れた時以来の再会となった。

 まず話題に上ったのは、やはりクラブのオーナーであるイングランドの投資会社ENICとの関係である。同社がヴィチェンツァ(をはじめとする各クラブ)をコントロールするやり方は、予想以上にクールでビジネスライクなものだった。

「ENICは、サッカークラブを株式や債券と同じ、ひとつの純粋な投資対象と考えています。クラブを買収してある期間運営し、より高い価格で売却する。いわゆる企業買収の考え方です。彼らの関心は、クラブの資産としての価値を高めることだけにありますから、運営のために人材を送り込んでくることは一切ありません。運営は我々のようなプロのクラブ経営者に任せて、彼らは予算管理を通じて間接的にそれをコントロールしているのです。我々は毎月、ENICの本部に月例レポートを提出し、向こうがそれをチェックするというやり方です。彼らも、サッカークラブの経営が通常の企業経営とは大きく異なることを十分理解していますので、例えば昨シーズンのB降格といった不慮の事態にも、柔軟性を持って対応してくれます。私がヴィチェンツァに来て2年強になりますが、その間何の問題もありません。むしろ、これほど物わかりのいいオーナーは他にはいないだろうと思うくらいです」

 純粋な投資の対象としてクラブを買収し、その運営には直接介入することなく間接的にコントロールするにとどめ、長期的な視点で資産価値を高めることに専念する。これは、カルチョの世界にはまったくないメンタリティだ。

 イタリアの実業家がプロサッカークラブを買収するのは、まず何よりも、自らがそのオーナーとして君臨するためといっても過言ではない。プロサッカークラブのオーナーになるというのは、ある意味で社会的成功のシンボル、いわば成り金の究極の夢のひとつだからだ。いち不動産業者から叩き上げてマスコミ界の帝王となり、ミランを買収してヨーロッパの頂点に押し上げ、その勢いをかって政界にも進出、イタリアの首相にまで登り詰めたシルヴィオ・ベルルスコーニや、ローマの市電の運転手から始めて小さな掃除会社を興し、ロ−マの副会長、凱旋門賞の勝利馬主、そしてペルージャのオーナー会長にまでなったルチアーノ・ガウッチなどは、まさにその典型である。

 しかし、ヴィチェンツァとENICの関係は、このイタリア的な図式とはまったく異なる、純粋にビジネスとしてのつながりにとどまっている。これは今のところ非常に特殊な、少なくともセリエA、Bでは唯一のケースである。なにしろ、オーナーがクラブの運営に口を挟まないということ自体、「国民の数だけ代表監督がいる」といわれるイタリアではまったく考えられないことなのだ。

 ちなみにいえば、日本のJリーグのクラブの運営形態は、ある意味でこのヴィチェンツァに近いものがある。ただし決定的な違いがひとつだけある。それは、日本にはまだ、ゼネラル・ディレクター、スポーツ・ディレクターといった“プロのクラブ経営者”がまったく育っていないということだ。これはまた機会を改めて論じるべきテーマだろう。

 さて、ENICが現場に口は出さない、とはいっても、クラブの運営に“イングランド式経営”の考え方がまったく反映されていないというわけではない。それがはっきりと表れているのが、マーケティング部門の充実である。ヴィチェンツァのクラブ事務所の一角を占めるマーケティング部門のオフィスには、まるで日本やアメリカの企業がするように、同部門の事業コンセプトを標語化したボードが掲げられていた。

 その内容をひとことで要約すれば、「ヴィチェンツァ・カルチョのマーケティング部門は、スポンサーシップやパートナーシップの拡大と多様化によって、大企業から地元中小企業、さらには商店にまで宣伝・広告やPRの機会を提供する」というもの。その語彙からして、カルチョの世界のものではなく広告業界のそれである。

 事実、マーケティング部門といっても、ヴィチェンツァの場合、主な事業はグッズ類などのライセンス・ビジネスではなく、クラブの様々な活動を広告媒体として提供するスポンサー・ビジネスの方だ。今シーズンは、メインスポンサー1社(エアコンメーカーのARTEL)、テクニカル・スポンサー1社(UMBRO)、サブスポンサー7社、オフィシャル・パートナー9社、オフィシャル・サプライヤーとコマーシャル・サポーターが計15社、オフィシャル・メディアが4社、計37社とスポンサー契約を結んでおり、その売上げは約70億リラに上っている。サグラーモラは語る。

「この数字は、プロヴィンチャーレの中では異例に高いものだと思います。その背景には、ヴェネト州がイタリアで最も起業家精神に富んでおり、企業の数が多く経済活動も活発だという事情もあります。もちろん、ここまで積極的に取り組んでいるクラブが他にないことも事実です。我々は、今年の1月にこの分野で豊富な経験を持つイギリス人のマーケティング・ディレクターを採用し、この分野を委ねています」

 イタリアではまだ、プロサッカークラブにとってマーケティング事業はちょっとしたサイドビジネスでしかない、という考え方が支配的だ。実際に、これまでこのシリーズで取りあげてきたクラブを見ても、プロヴィンチャーレはもちろん、ボローニャ、ウディネーゼといった“中堅”クラスのクラブでさえも、このヴィチェンツァほどには力を入れていなかった。本格的に取り組んでいるのは、一握りのビッグクラブだけ、というのが現状だ。

「しかし、これからはどのクラブも力を入れざるを得なくなるはずです。3月にEU(欧州連合)とFIFAの間で交わされた移籍制度の見直しに関する合意(別項を参照)によって、来シーズンからは、間違いなく選手の移籍金は下がってきます。いまのところ、移籍金を決めるための算定基準が明らかになっていないため、具体的にどのくらい影響があるかは計算できませんが、選手の売却益が今よりも下がることはまず間違いありません。選手をビッグクラブに売ることで帳尻を合わせてきた我々プロヴィンチャーレは、別のところで売上を上げなければ、これまでと同じ収益を保つことはできなくなるでしょう。
 収益が下がれば、支出も削らざるを得なくなりますから、選手に支払える給料も減ります。そうなると、いい選手はチームに来てくれなくなりますから、戦力も低下することにならざるを得ません。その先に待っているのは降格であり没落です。
 さらに、2002年一杯で切れる現在のTV放映権契約も、おそらく更新時には今よりも値下がりするはずです。前回の契約があまりにインフレ過ぎたのですが…。いずれにせよ、我々プロヴィンチャーレにとって、この問題はかなり深刻ですよ」

 育成部門で育てた選手や国内、海外から発掘した選手に活躍の舞台を与えて“商品価値”を高め、ビッグクラブに売却して利益を上げて、それを再投資して戦力を維持する。この“発掘・育成・売却”のサイクルを維持することが、プロヴィンチャーレの生き残りにとって不可欠な条件であることは、これまでいくつかのクラブの例を見てきた通りだ。しかし来シーズン以降、EUとFIFAの合意による移籍制度の見直しが適用された結果、移籍金の相場が下がるとすれば、このサイクルを維持することはますます難しくなりそうだ。ヴィチェンツァがマーケティング事業に力を入れてきたことは、結果的にその点からも、同じレベルのライバルに対するアドバンテージを生み出すものだ。

 しかしもちろん、スポンサーを獲得できるのも、チームのグッズ類が売れるのも、肝心のチームがセリエAの檜舞台で活躍してこそ。悪くともセリエBに落ちたときには、すぐに優勝を争い1年でAに復帰できるだけの戦いを見せなければ、サポーターもスポンサーも、そして市民も納得しないに違いない。

 ヴィチェンツァにとって、4年間続いた“グイドリン時代”が終止符を打った後の2シーズンは、新たな基盤を築くための試行錯誤の時期だったといえる。監督を替えただけで大きな補強もせずシーズンに臨んで、あえなくB落ちを喫した98-99シーズン。そしてそのダメージを最小限に抑え、セリエBを支配して1年でA復帰を果たした昨シーズン。トップチームに関していえば、ここまでのところ、基盤は徐々に固まってきているように見える。

「Bに落ちた時に最も厳しかったのは、チームの柱になる選手を手放さないことでした。具体的には、コマンディーニとザウリの2人です。コマンディーニは前年、Bのチェゼーナにレンタルに出していたのですが、そこで14ゴールを上げて注目され、すでにセリエAのクラブから7つもオファーを受けていました。それを、もう1年Bでプレーするよう説得するのは、簡単ではありませんでした。ザウリは、ご存じの通り、ヴィチェンツァの中で最もクオリティの高い選手です。セリエBを勝ち抜くためには、ひとりで試合を決めることができる彼のような“別格”のプレーヤーがどうしても必要でした。この2人だけはどうしても、ということで大きな犠牲を払って引き留めましたが、オテロ、メンデス、アンブロゼッティといった主力を売って若返りを図ったため、移籍収支はプラスでした」

 狙い通りこの2人が牽引車となったチームはセリエBで首位を走り続け、楽々と昇格を果たす。そして今シーズンは、チームの基本骨格を残しながら、守備陣(ステルケレ、カルドーネなど)と前線(トーニ、カロン)を強化するという、地味ながら堅実な補強でシーズンに臨んだ。21ゴールを挙げたコマンディーニは、200億リラを超える移籍金でミランに移り、クラブの金庫を潤している。

「我々のように残留を賭けて戦うチームは、シーズン前のメルカートでその年の予算を全部使ってしまうわけには行きません。今シーズンも、途中で手を入れる可能性を予め想定した上で予算を配分して、開幕に向けたチームを組織しました。もちろん、当初のメンバーで戦い抜ければそれに越したことはありませんし、それを目指してチーム作りを進めています。しかし、このカルチョの世界には、予見不可能なことがたくさんあります。それにどれだけ対応できるかで、結果が決まるものなのです」

 事実、開幕から降格ライン上を行ったり来たりという微妙なポジションで戦い続けてきたヴィチェンツァは、冬のメルカートで積極的に補強に乗り出す。課題だった中盤にダボ(モナコ/フランス)、ソンメーゼ(トリノ)という信頼できる即戦力を補強、さらにディフェンスラインの中央にも、ユーヴェからザンキを獲得して、一気にチーム力を引き上げた。

 前半戦を4勝4分け9敗(16ポイント)の15位と、降格ラインの下で終えたものの、その後の12試合を4勝3分け5敗で乗り切り、この原稿を書いている29節終了の時点では、降格ラインから3ポイント上の13位。とはいえ、過酷なサバイバル戦線のまっただ中にいることに変わりはない。残る5試合、ビッグクラブとの対戦はユーヴェを残すだけだが、他の4試合がいずれも直接対決という微妙なカレンダーが待っている。100周年という記念すべき節目となる来シーズンは、なんとしてもセリエAの檜舞台で迎えたいところだが、あとは神のみぞ知る、というところであろうか。



 今シーズンの結果が残留と出ようと、残念ながら降格と出ようと、ヴィチェンツァというクラブの歴史は続いていく。トップチームの現有戦力はともかく、そこにどのように新たな選手を供給し続けられるかが、セリエAとBの狭間に生きるプロヴィンチャーレの生命線である。しかし、育成専門ともいえるユニークなセリエCのクラブ・ロディジャーニで長年の経験を持つサグラーモラだけに、もちろんそちらも抜かりはない。

「選手の売却益だけで財政を維持することが難しくなるとはいっても、プロサッカークラブである以上、これが柱であることに変わりはありません。逆にいえば、ビッグクラブにとって魅力のある選手を発掘し、育て続けられない限り、チームの戦力とクラブの財政のバランスを維持していくことはできません。マーケティングなどの事業は、力を入れるとは言っても、位置づけとしてはあくまでも補完的なものです。
 私がヴィチェンツァに来て、最初に手をつけたのも育成部門の全面的な再構築でした。2年前には、わずか4チームにまで縮小されていたものを、来シーズンには11チームまで拡大します。すでに、ここから15kmほど離れたイゾラ・ヴィチェンティーノという町に20ヘクタールの土地を確保してあり、そこに育成部門を集約したスポーツセンターを建設する計画もあります。投資額は90億リラほどになりますが、地域の人々のためのフィットネス・クラブなども併設して、収益源のひとつとすることも織り込み済みです」

 下位リーグや外国からの選手発掘もまた、育成部門の充実と並ぶ柱である。ヴィチェンツァの場合は、外国よりもむしろイタリア国内を重視しているという。事実、セリエBのトレヴィーゾから40億リラで獲得したルカ・トーニは、今シーズンの補強における最大のヒットだった。

「外国人の場合、イタリアという新しい環境に適応できるかどうか、という大きなリスクがあります。例えば今シーズン、クロアチア・ザグレブから獲得したトーマスは、代表に選ばれるほどの実績を持った選手であるにもかかわらず、レギュラーに定着するまでに4-5ヶ月が必要でした。一時は、このまま環境に適応できずに終わるのかと、本気で心配したほどです。一方トーニは、開幕からチームの柱として活躍しています。同じ移籍金を払うとすれば“ハズレ”を引く確率は、イタリア人の方がずっと少ないのではないでしょうか。
 現在は、スポーツディレクターのリオネッロ・マンフレドーニアの下で、セリエBとC1を4人のスカウトがチェックしています。外国に関しては、代理人からの売り込みに任せている状態です。我々のような規模では、あれもこれもというわけには行きません。ポイントを絞ってそこに重点投資する方がずっと効率がいいのです」

 ちなみに、その代理人任せでブラジルから獲得したジェーダ、デデの2選手(いずれも、カレカが会長を務めるカンピナスからの移籍)は、欧州サッカー界を揺るがせるパスポート疑惑に巻き込まれている。ヴィチェンツァはパスポートの不正取得に関与していないことが証明されたため、インテル、ラツィオ、ウディネーゼなどとは異なり、追求は受けていない。

 さて、このインタビューを通して見えてきたのは、ヴィチェンツァというクラブの運営原理は、これまで見てきたいくつかのプロヴィンチャーレとは異なり、非常にビジネスライクなものだということだ。ブレシアやペルージャは、コリオーニ家やガウッチ家の私有物であり、その運営原理も言ってみれば個人商店に近いものがある。一方、このヴィチェンツァは、ENICというホールディング・カンパニーのいち子会社であり、予算、利益、資産価値といった、まったくドライに割り切ることのできる客観的な価値によってコントロールされている。

 すでに見たとおり、ENICの目標は、ヴィチェンツァ・カルチョという資産の投資価値を高めることにある。ということは、ゆくゆくはさらに上位、セリエA中位から欧州カップ進出をうかがうところまでを視野に入れているのだろうか?

「いや、それは不可能です。ヴィチェンツァは人口10万人。どう頑張っても、マーケットとして、クラブに400-500億リラを超える財政規模をもたらしてくれる可能性はありません。セリエAに定着しこの檜舞台で戦い続けるところが、限界でしょう。パルマのように、国際的な大企業がパトロンについてくれれば話は別ですが…。残念ながら、チームの戦力は、クラブの財政規模にほぼ対応しているというのが、カルチョの世界の現実です。しかも、ビッグクラブとプロヴィンチャーレの格差は広がるばかり。ヴィチェンツァという都市の規模では、セリエAで戦い続けること自体、大きな誇りなのです」

 だとすればENICも、ヴィチェンツァが安定した収益を挙げるようになり、資産価値が高まった時に、いい買い手が現れれば、クラブを手放すことになる可能性が高い。サグラーモラもそれは否定しなかった。

「サッカークラブのオーナーという立場は、非常に大きなストレスにさらされるものですし、これだけの経営規模になると、経済的なリスクも決して小さくはない。5年から10年をひとつのサイクルとして、異なる資本に受け継がれていくのはごく当たり前のことです。いってみればターンオーバーです。
 サッカークラブというのは、結局のところ、その都市のものでしかありません。選手や監督は毎年のように変わりますし、経営者もそうやって変わっていきます。変わらないのは、チームカラーであり、サポーターや市民がクラブに注ぐ情熱だけです。ENICもそのことはよく理解しています。ヴィチェンツァの会長ポストに地元の実業家、アロンネ・ミオラ氏を据えていることがその証拠です。会長職はいってみれば名誉職ですが、だからこそ、ヴィチェンツァ人が就かなければならないのです。ENICや我々は、あくまでもヴィチェンツァという都市から、このクラブを委ねられているだけに過ぎないのですから」■

(2001年5月8日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

Posted at 06:37 午後    

木 - 10月 23, 2008

サンプで苦戦する柳沢(2003.12)


 アーカイヴ#94。ウルトラス話も一段落したので、がらっと趣向を変えて、03-04シーズンにイタリアに来てサンプドリアでプレーしていた当時の柳沢敦について。もうあれから5年も経ったんですね。今シーズンは京都に移籍して、充実したキャリアの終盤を送っているようですが。

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 シーズン開幕から3ヶ月、キャンプインに合わせてチームに合流してからでもまだ4ヶ月半。決して長いとはいえない時間の中で、柳沢敦は、イタリアという新しい現実に対峙し、環境の変化を受け止め、ひとつひとつ消化しながら、経験と実績を少しずつ、しかし着実に積み重ねているように見える。

 11月30日、ジェノバで行われたセリエA第11節アンコーナ戦は、様々な意味で、柳沢敦の現在が象徴的に表現された試合だった。いつものようにベンチで試合開始のホイッスルを聞いた後、ハーフタイムからアップを始め、後半15分にパロンボと交代でピッチに立つ。ポジションは、もはや「定位置」となった感のある左サイドハーフだ。

 地力に勝るサンプが押し気味とはいえ、0ー0の均衡した状況だけに、ゲームへの「入り」は慎重だった。最初にアクションを起こしたのは、出場6分後、後半21分のことだ。左サイドに流れたFWフラーキにクサビの縦パスが入った瞬間、エリア左角付近のスペースに向けて爆発的なスタートを切る。フラーキからのパスをトップスピードで受け、ドリブルでエリア左端に突入すると、一瞬中央に視線を向けた。

 この状況からならば、ニアポストを狙って左足で強引にシュートを放つことも不可能ではなかったし、そのままファーポストにクロスを送ることもできた。強気なFWならば、急ブレーキをかけて切り返し、DFに1対1を挑んだかもしれない。

 しかし柳沢が選んだ選択肢は、そのどれでもなかった。左足でクロスを上げるフェイントをひとつ入れると、逆の右足でサイド深くに丁寧なグラウンダーを流し込んだのだ。急がば回れ。そこには、マーカーを振りきったフラーキがフリーで走り込んでいた。余裕を持って折り返された正確なクロスは、FWバッザーニの頭にどんぴしゃり。アンコーナのGKスカルピに、もはやなす術はなかった。

 そして試合終了間際の後半43分には、右サイドの攻防を見ながらするするとフリーで前線に上がり、エリア手前中央のこぼれ球に素早く反応してかっさらうと、やや右寄りでマークを外したフラーキにラストパスを通し、決定的な2ー0を演出する。

 これまで出場した試合でも何度か決定機には絡んできたものの、ゴールに直接つながるアシストはこれが初めて。1点目のチャンスメイクと並んで、2つのゴールすべてに絡む活躍は、イタリアに来てから最も大きな「目に見える結果」となった。翌日のマスコミ各紙の採点欄にも「柳沢、決定的な貢献」、「柳沢、サンプのプラスアルファ」、「柳沢がリズムを変えた」といったポジティブな見出しが並んだ。

 この7月、入団発表の記者会見で「最初の3ヶ月はイタリア語を身につけ環境に馴染むための時期」と語っていたマロッタGMはいま、その点から見れば柳沢の現状は十分合格点、と評価する。

「私が今まで見てきた他の外国人選手よりも、ヤナの方がずっと早くイタリアの環境に馴染んでいる。言葉に関してはまだまだ向上の余地があるが、今はもう言われたことがかなりわかるようになった。ピッチ上でも、我々の期待した通りのプレーを見せ、チームに貢献してくれている」

 事実、1試合あたりの平均出場時間が30分そこそこという限られたチャンスの中で、柳沢は別表の通り、途中出場した実質7試合のうち3試合、つまり4割強の割合で得点、それもゲームの行方を左右するゴールに絡むプレーを見せている。“ジョーカー”、つまり途中出場で試合の流れを変え、ゴールを奪う切り札としての実質的な貢献度は、決して低くはないのだ。

 確かに、本来のFWではなくサイドハーフでの起用、しかもレギュラーではなく途中出場がほとんど、という表面的な事実だけを取り上げれば、日本代表のエースに期待するファンの目から見た時には物足りなさが残るかもしれない。しかし柳沢の場合、中田英寿や中村俊輔がそうだったように、最初からレギュラーとしての活躍が期待されていたわけではない。言葉や生活環境の劇的な変化に適応するだけでなく、これまでほとんど経験がない未知のポジションにチャレンジすることを迫られながら、上記のような結果を残していることを考えれば、ここまでの歩みはまずまず順調と言っていいのではないか。

 最も肝心なプレーの質も、着実にレベルアップしているように見える。ノヴェッリーノ監督やチームメイトが柳沢の長所を表現する時、最も頻繁に使われるのは「プロフォンディタprofondita'」という言葉。「深さ、奥行き、底」といった意味の名詞だが、サッカーの戦術用語としては、敵DFラインの裏からゴールラインまでのスペースそのもの、あるいはそのスペースを使ってプレーすることを意味する。あえて日本語に訳せば「(攻撃における縦の)奥行き」ということになるだろうか。柳沢は、攻撃にこの「プロフォンディタ」をもたらす貴重なプレーヤー、というわけだ。

 事実、ラインの裏に抜け出す動きの鋭さに関しては、サンプのFW、MF陣の中でも柳沢が突出している。冒頭で取り上げたアンコーナ戦の1点目をもたらしたスペースへの走り込みは、それを象徴するようなプレーだった。

「ヤナはスピードがあるから、攻撃に『奥行き』を作り出してくれる。きょうも彼とフラーキが入ってダイナミズムと意外性が加わり、試合の流れが一変した。チームにも思った以上に早く馴染んだし、とても貴重な戦力だよ」
 常日頃から柳沢に好意的なエースストライカー、ファビオ・バッザーニの試合後のコメントである。

 柳沢のプレーに「奥行き」をもたらしているのは、彼のスピード、そして日本で「動き出しの良さ」(これに相当するイタリア語は存在しない)と表現される、戦術的な動きの質の高さである。ここで誰もが思い出すのは、10月に日本代表の一員とした戦ったチュニジア戦、ルーマニア戦で柳沢が決めた2つのゴールだろう。いずれも、一瞬のタイミングでラインの裏に抜け出す、つまり攻撃に「プロフォンディタ」をもたらす質の高い動きから生まれたものだった。

 さて、ここまでポジティブな側面ばかりを取り上げてきたが、これらには「シーズンの1/3を終えた現時点で」という但し書きがつくことを忘れるわけにはいかない。チームにおける今の位置づけは“ジョーカー”だが、柳沢にとって最大の目標は、レギュラーとして、そして本来のポジションであるFWで活躍し、勝利に貢献することだろう。そこにたどり着くために、現在からもう一段階のレベルアップが必要なことは、誰の目にも明らかだ。

 マロッタGMは次のように語る。
「サイドハーフへのコンバートは監督のアイディアだった。イタリアサッカーの中では、FWよりもむしろ現在のポジションが、より彼の持ち味を生かせるという判断だ。私も、今の彼にとってFWはより困難が大きいポジションだと思う。だが、フィジカルで当たりが激しいイタリアサッカーの特質をより理解して適応できれば、もっと良くなるはずだ」

 一方、ノヴェッリーノ監督の口から何度か聞かれたのは、「ヤナにはFWとしての“カッティヴェリアcattiveria”が足りない」という表現だった。イタリア語で「あくどさ、たちの悪さ」を意味するこの名詞は、カルチョの世界ではしばしばポジティブな意味合いで使われる。敵のDFとシャツを引っ張り、腕をつかみ、小突き合うファウルぎりぎりの駆け引きを繰り返し、一番大事な瞬間に強引に、そしてまんまと相手を出し抜く。日本ではポルトガル語の「マリーシアmalicia」という表現の方がなじみがあるかもしれない。いずれにせよ、クリーンで丁寧なプレー、きれいな攻撃の組み立てを志向する傾向が強い柳沢のプレースタイルに欠けている要素であることは確かだ。しかし、文字通り「カッティヴェリア」の固まりであるイタリアのディフェンダーを相手にゴールを奪い取るためには、彼らと同じくらいワルじゃないと難しいことも、また事実ではある。

 プレースタイルというのは、技術や戦術だけでなくサッカー哲学、大げさに言えば人間としての価値観にも関わる問題だけに、そう簡単に変わるものではない。しかし、これまでとまったく異なる価値観で動くカルチョの世界に身を投じて、ゴールが決まらない、FWとして起用してもらえないという現実に直面し、どうしたらそれを乗り越えられるか、一番考え、悩んでいるのは間違いなく柳沢自身のはずだ。

 毎日の練習を見守っている地元紙のサンプドリア担当記者は、別の視点からもうひとつ、興味深い指摘をしてくれた。
「柳沢はすっかりチームの一員になった。練習中もチームメイトとふざけあったりしているし。ただ、ピッチの上でのプレーを見ていると、言葉の壁がまだまだ大きい。プレー中は常にお互い声を掛け合いながら、右だ左だ、ここによこせ、裏に出せといった指示を交わすものだが、柳沢にはその一瞬のやりとりがまだほとんどない」

 確かに、練習でのミニゲームなどを見ていても、柳沢の声が聞こえることはあまり多くない。“阿吽の呼吸”を美徳とするわれわれ日本人とは異なり、全員が口から先に生まれてきたようなイタリア人は、ピッチの上でも口数が多く、しじゅう悪態をつきながらプレーしているのだが、柳沢はまだそのリズムに乗ることができていないように見える。

 時々「おお~」と言葉にならない声を出してパスを求めることもあるが、なかなかうまく伝わらない。距離が近かったり、完全にフリーだったりするときには自然にボールが来るが、組み立ての中でチームメイトが柳沢を捜すとか、絶妙のタイミングでいい動きをして抜け出した裏のスペースに、リスクを冒してスルーパスを出してくれることは稀である。しかしそれは、チームメイトが柳沢を信頼していないというよりも、単に一瞬の意志疎通が十分でないことが原因のように見える。何というか、まだ同じノリでプレーできていない感じなのだ。

 イタリアに来てからまだ4ヶ月半。複雑な時制と語尾変化を持つイタリア語を短期間で習得することは簡単ではないが、ブロークンでもいいから同じリズム、同じノリで言葉を交わせるレベルまで進めば、ピッチ上のコミュニケーションとそれがもたらすチームメイトとの信頼関係、そしてコンビネーションが、もう一段階レベルアップすることは間違いないだろう。

 事実、ノヴェッリーノ監督もマロッタGMも「ヤナは技術的には完成された選手。戦術的な動きもいい。つまり資質的には十分イタリアで通用するものを持っているということだ。一番重要なのはイタリアの環境、イタリアサッカーに馴染むこと」と口を揃えている。ブレイクスルーの鍵は、高度な技術や小難しい戦術ではなく、もっと単純なところに潜んでいるのかもしれない。

 本来の持ち味である「プロフォンディタ」にはますます磨きがかかっている。あとはここに、イタリア仕込みの「カッティヴェリア」が加われば、まさに鬼に金棒である。2月からスタートするワールドカップ予選の舞台では、この2つを兼ね備えてさらに一皮むけた柳沢の姿を期待できそうだ。■

(2003年12月4日/初出:『SPORTS Yeah!』)

Posted at 02:48 午後    






























































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